音も今しづか、
丞相病篤かりき。
[#ここまで底本では上段]
[#ここから底本では下段]
上野の山に風あれて、
時雨降りしく動物園、
北海道の羆《ひぐま》さへ、
寒さに頸を縮むめり、
况して天竺熱帶の、
野山に育ちし動物が、
寒氣に得堪へでゆくりなく
健康傷るぞ是非もなき、
猩々病篤かりき。
[#ここまで底本では下段]
[#ここで字下げ終わり]
水哉君の此の名文(と曰ふてもよからう)――其終に象と虎の弔辭がある。『象は眞言宗と見えて、鼻の先に香を摘んで、香爐に不恰好に振り撒き、「象撒くサンザンだ(ノーマクサンマンダのもじり)ベーロシヤナア」と唱へて退く……虎は禪宗と見えて「南無迦羅タンノウ虎ヤー虎ヤー」(これでお仕舞)』と結んでゐる。
其後私は「曉鐘」「東海遊子吟」「曙光」「天馬の道に」「アジアに叫ぶ」譯詩としてはバイロンの「チヤイルド・ハロード」(全譯)などを出したが、世間一般は私を主として「天地有情」の作者と見なしてゐるらしい。こんなことを曰ふのは憚るべき次第かも知れぬが、「天馬の道に」を比較的善いものと自分では考へてゐる。世界大戰終了の後二年、一千九百二十年三月の出版、イタリヤのダヌンチオが、東亞飛行の壯擧決定と聞いた後、大正八年九月十八日、全體の構想が一夜に成り、尋で聯想の翼の擴がるまにまに補足して成つたもの、三十六章から成るが、各章皆獨立の一篇として讀んで差支ない。天馬ペガサスが天翔ける道を飛來する南歐の詩人を歡迎する其序詩は初め「中央公論」に載つた。之を誰かが當時イタリヤ滯在の下位春吉君に送つたと見えて、同君は詩人エンリコ君と共に之をイタリヤ語に譯してナポリの書店から發行した。ダヌンチオ詩宗が之を讀んで激賞したといふことを、下位君から當時伊國漫遊中の故二高校長武藤虎太郎君を通じて報道された。
「激賞」とは大割増だらうが、一寸嬉しくないことも無かつた。序詩の伊譯はさすが伊語の性質上原作以上である。
前に戻るが「天地有情」出版の折は『坊つちやん』形氣で、序の中に『…詩は閑人の囈語に非ず…』とか、例言の中には『詩を遊戲と見なし、閑文字と見なすのは、古來の習慣であるが、此弊風が敗れぬ中は眞の詩は起らない、一般讀者の詩に對する根本觀念を刷新するのが、今日國詩發展の要素である』などゝ書き、附録に歐洲諸文豪の詩論或は詩人論を譯載した。カーライル、シエリイ、ジ
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