論及び之を基とする議論が猖獗であるのは西歐の物質的文明瓦解史上の當然の數かも知れぬが世道人心の上に最も有害のものは是である、唯物論は一切の神聖なるものに對する反抗である』と書いた。此度刊行の隨筆は讀んで字の如く隨筆であり漫録であるから別に中心觀念といふべきものは無い。ただ同樣の傾向を帶びてゐるだらうと思ふ。また本書は前に述べた通り隨時諸雜誌へ書き散したのを一つに纏めただけのものであるから折には前後重複の個處がある、是は讀者の了解を願つておく。以上を以て本書の序とする。
[#地から12字上げ]仙臺に於て
[#地から3字上げ]昭和九年(一九三四)六月 土井《どゐ》晩翠
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附言(一)私の姓を在來つちゐ[#「つちゐ」に傍点]と發音し來たが選擧人名簿には「ド」の部にある。いろ/\の理由でこれからどゐ[#「どゐ」に傍点]に改音[#「改音」に白丸傍点]することにした。特に知己諸君に之を言上する。
附言(二)昭和五年十一月刊行、谷至道さんの著『禪の極致を洒脱に説いた澤庵和尚』から(本書の題に關聯して)左の拔萃を拜借する。
『或日、澤庵和尚は千代田城に赴いた折、名うての荒武者伊達政宗に會つた。政宗が
「雨の降る日は天氣が惡うござるが、どうしたものでござるな」
澤庵和尚はヂツと政宗を見た、政宗は瑞嚴寺の和尚に參じて禪も出來た武士である。
「左樣、雨の降る日は天氣が惡う御座るな」
と同じやうなことを澤庵も繰返した。
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* *
ある日鷹狩の歸りに一天俄かに掻き曇り、雨は篠を突くやうにザア/\降つて來た。政宗も家來も濡れ鼠のやうに、眼もあてられない。すると今まで野良かせぎをしてゐたらしい百姓が『雨の降る日にや天氣が惡い‥‥』と大聲で唄つて行つた。
その時、政宗は百姓の聲を聞いて「ははあ、こゝだな」と、初めて澤庵禪師の言葉の意味が分つた。その時の彼の心持は家來共が雨に濡れて困つてゐる樣子を見て氣の毒に思ふ憐みの情以外の何物でも無かつた。つまり我[#「我」に傍点]を捨てたのである、我[#「我」に傍点]を捨ててこそ會得が可能なのである。‥‥』
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私が『隨筆』誌上に書いた時は全くこの事を知らなかつた
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