科二年を卒へ、續いて當時唯一の(東京)帝國大學に入り英文學を修め、明治三十年卒業、三十二年母校に奉職、三十四年六月出發、外遊して英佛、獨、伊を廻り、三十七年末日露戰役の最中に歸朝、翌年また母校に奉職して爾來二十餘年――今なほ續いて怪しげな英語教員である。初めて公刊したのはカーライル英雄論の譯(明治三十一年、春陽堂)その序の中に『著者の心と讀者の心と調を一にせぬなら讀書の效用が無い、私は今日の才子者流に對して本譯の誦讀を望まない』など穉氣笑ふに耐へぬ言を吐いたが、しかし大體に於ては今でも斯く信じてゐる。次に刊行したのは處女作『天地有情』(明治三十二年四月七日發行)――甚だ幼いものだが、多大に世間から愛讀されたのは豫想外の僥倖であつた。續いて『曉鐘』『東海遊子吟』『曙光』『天馬の道に』を刊行した。序ながら(曰はでもの事であるが)詩に於ては屈原、李白、杜甫‥‥ゲーテ、ユーゴー、シエレイ‥‥を多年に亙つて尊敬してゐる。東西の聖經中の純正高尚なものに對しては只たゞ、崇拜と曰ふより外はない。』
[#ここで字下げ終わり]
右は前記の如く昭和五年に書いたもの、それから四ヶ年の後本年四月二高教授を辭して比較的自由な身となつて居る。『書物を讀む前に著者について大體の知識を持つのは便利だ』と Pryde の“Highway of Literature”にあるのが、尤もと思はれるから筆の序に書いた。
昭和二年秋博文館から在來の作を集めて『晩翠詩集』と題して刊行したが其序の中に
『偶然にも本集は靈界への希望に端を發して世界平和への希望に筆を收めてゐる‥。萬世の光である東西諸聖賢の共に一致するところ即ち尊きものに對する敬畏を著者は特に皷吹したいのである。神、人類《ヒユーマニテイ》、祖國は本書の中心觀念である‥‥』
今讀んで見るとちとえらがるやうで、何やら嫌な臭みがあるといふ批評を下さるるかも知れぬが『高山[#(ハ)]仰止、景行[#(ハ)]行[#(ク)]止、雖[#「雖」に白丸傍点][#レ]不[#「不」に白丸傍点][#レ]能[#「能」に白丸傍点][#レ]至[#「至」に白丸傍点]、然心郷[#「然心郷」に白丸傍点]−[#二]往之[#「往之」に白丸傍点][#一]』である。燭光にあこがれる愚かな蛾と見て載けば宜しい。また昭和七年夏刊行の新詩集『アジアに叫ぶ』の序の中に『今日思潮の渦卷き流るる中に唯物
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
土井 晩翠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング