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若僧 (女人の美を具《そな》えたる少年、齢《とし》二十に余ることわずかなれば、新しき剃髪《ていはつ》の相《すがた》傷《いた》ましく、いまだ古びざる僧衣を纏《まと》い、珠数《じゅず》を下げ、草鞋《わらじ》を穿《うが》ちたり。奥の方を望みつつ)やっぱり和尚様でございます。ちょうどいま月の流れが本堂の表へ溢《こぼ》れるようにあたっているので、蒼い明るみの真中へうしろ向きに見えて出ました――恐ろしい蜘蛛《くも》でも這い上るように、一つ一つ段へつかまりながら――
妙信 (年齢六十に近く白髯《はくぜん》を蓄《たくわ》え手には珠数を持てり。若僧のものいえる間ようよう上手に進み行きついに肩を並べつつ)今さっき本門の傍で呻《うめ》いていると思ったが、いつのまにか上って来たのだな。ああして狂気の顔が、水に濡《ぬ》れたされこうべ[#「されこうべ」に傍点]のように月の中へ浮んで、うろうろ四辺《あたり》を振り向いた様子は、この世からの外道ともいおうばかりだ。
若僧 あ、――
妙信 あんなに跳《おど》り込んで、また本堂の片すみにつく這いながら、自分の邪婬《じゃいん》は知らぬことのように邪婬の畜生のとわめくのがはじまろうわ。
若僧 もう呻くような声がきこえて参ります。
妙信 (必ずしも対者にもの言うがごとくならずして)だがとやかくいうものの今夜という今夜こそ、あのように乱れた心の中は蛇《へび》の巣でもあばいたように、数知れぬむごたらしい恐れがうごめいて、どんな思いをさせていようも知れぬことだ。
若僧 (妙信に向い)ほんとに悪蛇《あくじゃ》の怨霊《おんりょう》というのは、今夜の内に上って来るのでございましょうか。
妙信 (若僧のもの問えるを知らざるがごとく、すでに鐘楼の鐘を仰ぎ視《み》て憎しげに)みんなこの鐘が出来たばかりよ。なまじ外道の呻くような音《ね》をひびかしたばかりに、山中がこんな恐ろしい思いをせねばならぬわ――
若僧 (迹りてひそやかに強く)今夜のうちにその悪霊は、きっと上って来るのでございましょうか。
妙信 (始めて顧り視て)ほんとにのぼって来ようぞ。俺《わし》にはもうじとじとした呪《のろ》いの霧が山中にまつわって、木々の影まで怪しくゆらめいて来たような気がするわ。それにしても和主《おぬし》は不憫《ふびん》なが、何にも知らずこんな山へ迷い込んで来た
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