のさまを想《おも》わしむ。池底のごとき沈黙。
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妙源 (対者を定めず)和尚はどこへ行ったのだ。
妙信 ほんとに和尚はどこへ行ったのだろう。さっきわしらがここへ来た時、ちょうど本堂の中でいつものようにわめき始めたとこだったが、気づかぬうちに声もやんだような。だが今夜こそ峰から谷へ幾めぐり、爪を立てた野猫《のねこ》のようにはせめぐっても片時落ちついてなぞいられまいわ。
妙海 (にわかにある不安を思いつけるがごとく)和尚といえば、わしたちは山門の傍で見張りするように言われていたが、こうしてここにいる姿でも見つかろうなら、悪霊の呪いが来ないまでも、また妙良のような目にあいはせぬかの。
妙源 和尚の影がさしたら、そこの森の中へ身をかくそうまでよ。あんなぼうふら[#「ぼうふら」に傍点]のような血の走った眼がぎょろぎょろしたとて、遠くから人の数なぞよめはせぬ。だがそれにしてもあの時は恐ろしかったな。妙良の奴《やつ》、つい和尚の来かかったのを知らず、依志子の腹のことを口走ったと思うと、骨ばかりの指が啖《くら》い付くようにのど元へかかって、見ているうちに目から鼻から血が流れ出すのよ。――
妙海 その話はやめにしよう。一つ一つ骨に絡《から》んだ腸でも手繰り出されるような妙良の悲鳴が、今だに耳の中で真赤な渦をまいて、思ってもぞっとするわ。
妙源 ――血でひたひたになった本堂の隅へ、悪魚の泳ぐように這いつくばって、とかげのような舌の断《きれ》を抓《むし》りながら、「執念が何だ、邪婬の外道が何の法力に叶うかい」とわめいた眼つきは――
妙信 (戦慄《せんりつ》)よさぬかというに、さもないでさえ恐ろしいこの夜更《よふ》けに、そんな話をしなくとものことじゃないか。
若僧 (唐突に妙信に向い)私はやっぱり降りて参りとうございます。たとえ行き迷うてどのような恐ろしい目にあいましても、こうして、人を沈めた沼地のようにいまわしい呪いの霧が、骨の中までしみ込んで来るところに立っているよりも、一人で路を歩いている方がいくらよいか知れませぬ。
妙海 (ほとんど何らの感情なく)もう何をいうても叶わぬわ。お前はまだ仔細も知るまいが、この山へ一度上ったからは、どのようにしても降りることは出来ないのだ。
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この時若僧ははなはだし
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