れて彼の許を訪れた。伯爵のために何かと骨を折つて貰はうといふ虫のいゝ魂胆からである。人のいゝベートォヴェンは、その通りにしてやつたらしい。とにかく彼と伯爵との間には友情が結ばれた。だが彼は、その伯爵夫人をひどく『軽蔑』してゐたといはれてゐる。『恋愛』から『軽蔑』へと、これほどの大きな転落もないだらう。
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覆水無収日
去婦無還時
相逢但一笑
且為立遅々
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といふ詩が中国の小説の中に出てくる。こぼれた水は戻るまい。逃げた女は帰るまい。逢つても笑つたきりである。しづかに立つたきりである。といふほどの意味だとおもふが、朱買臣の妻といふ話が中国にある。朱買臣といふのは貧乏人の子だつたが、ひどく学問好きで、本を読むことを好んだ。営々と稼ぐことを忘れてゐたから貧乏がよけいひどかつた。その妻その貧乏を恥ぢ、つひに彼を罵つて去る。ところが朱買臣はその勉強の甲斐あつて科挙に及第した。出世して大官となる。昔の妻を探し求めると、彼女は身を落して道路工事の女土方になつてゐた。引き取らうとすると、おのが愚を悔んで自ら縊れて死んでしまつたといふのである。ベートォヴェンに
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