貸家を探す話
高田保

−−
【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]けなく

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぐる/\
−−

 私はいま伊豆の温泉宿にゐて、のんびりした恰好で海を眺めてゐる。だが人間を恰好だけで判断するわけにはいかない。この私も実はのんびりどころか、屈托だらけなのである。海を眺めてゐるのは恰好だけで、私の眼は貸家札を探してゐるのである。
 今朝の都新聞を見ると、『読者と記者』といふ欄に、「この一月以来私は貸家探しをしてやつと見つかり五ヶ月ぶりにホッとした者だが」といふ書出しで、ある読者が苦情を並べてゐる。記者の方も同情して「大問題です」と答へてゐる。私もまたこゝのところずうつと貸家探しをしてゐる者だ。私の方はまだ見つからんのでホッとするまでにならない。そこで私は仕方なくこの温泉宿へやつて来たといふ次第だ。海を眺めながらも貸家札がといつたのは、つまり私の心境を表現したのである。
 新聞を手にすると先づ、何よりもあの一番後の頁、あそこを見ることにしてゐる。バルカン諸王国の運命も気にかゝらんことはないが、それよりも『貸家』といふ案内広告である。しかし近頃は『貸家』よりは『売家』の方が多い。『貸家』が二件なら『売家』の方は二十件である。だからその結果として『求貸家』といふのがすばらしく並んでゐる。当然の比例で『求売家』といふのは見当らない。世の中の方則といふものは整然と行はれてゐる。泰平なものだなと思ふ。
 泰平ではあるが私には、なぜこの売家と貸家とが『家屋』といふ一つの欄に収められてゐるのかが判らない。借りなければならない人間に買へる筈はない。同じ家屋ではあるがこの二色は極楽と地獄みたいな相違である。新聞社にしてこんなことに気づかないとは可笑しすぎる。
 それはそれとして手頃な広告を見つける。だがこれが見つかつたとて、すぐさま、手頃な貸家が見つかつたことにはならない。厭でもそこまで足を運ばなければならない。判りにくいところを、円タクでぐる/\廻る。メーターの方は黙つてカチリ/\と出るだけだが、運転手の方は黙つてゐない。いゝ加減にしてこの辺で下りてくれといふ。家主への手前、折角自動車で乗りつけた豪勢なところを見せたいと考へたのも、それですつかりふいになつてしまふ。それで、どうだね君、用事はすぐ済んでまた銀座の方へ帰るんだが、ちよつと待つてゐて稼ぐ気はないかね? 君だつて空車で帰るよりはいゝだらう。勿論メーターは立て直していゝよ。などと御機嫌をとつてみるのだが、なか/\その手には乗つてくれない。御冗談でせう、近頃の円タクで空車流しをやるやうなそんなトンチキは近頃の貸家よりも目つからねえやうなもんですぜ、などと喰はされる。
 さて、さういふ思ひをしながら、やつと駆けつけた先方の家主だが、これがひどく冷たい。私のとこには空家なんぞ無い筈だといふ顔をする。あゝあれですかいと来る。あれはもうとつくに決つちまひましたよ、といふのである。とつくにといつたつて広告は今朝の新聞ぢやないか。一体いつ決つたんですかと尋くと、午前中ですよ。午前中の何時頃ですかと、物の勢ひでこつちも尋いたつて仕方のないことを尋く。すると、さう午前七時か、七時半か、なにしろ御出勤前だといつて居られましたからなといふ返事である。午前七時、出勤前、なるほどこれでは敵ひやうがない。
 私は勤め人ではない。だから就床とか起床とかについてだけは自由主義者だ。春眠暁をおぼえず、別にその季節に限つたこともないが、毎朝の新聞といつても、それを手にするのは大概正午の時報前後だ。それからゆつくり顔を洗ふ、落ちついて朝飯を認める。しづかに珈琲を啜る。かうして私のその日がはじまる。だから広告を見て駆け付けたといつても、午後の三時は過ぎてしまつてゐる、七時と三時では四時間の違ひのやうだが、午前と午後だから八時間だ。一日八時間の労働とすれば、正に一日だけ遅れてゐるやうなものだ。さすがの私もつくづく引け目を感じる。折柄街ではもう夕刊を売つてゐる。『アルバニア王蒙塵す』と大きく書いたビラが、アルバニア人のやうな顔をした老人の夕刊売りの前でひら/\してゐる。だが私にはもう、バルカンの運命などどうだつていゝ。そんな事をでかでかと報道するよりも、あの『案内広告』といふやつを夕刊の紙面へ移してくれた方がどんなにありがたいかしれやしない。夕刊だつたら出勤前の駆付けでは遅いことになる。どうしたつて退勤後といふことになる。それだつたらこの私にだつて競争ができるだらう。
 
 いまのやう
次へ
全7ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高田 保 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング