たのである。

 文芸家協会といふものがある。そこで協会員に金を貸すと決めたことがある。ではといふので協会員が申し込んだ。なぜ借りるのかと事務所の役員が尋ねた。貸すといふから借りるんぢやないかと協会員達は答へた。
 だがこれもずつとの昔のことである。いまの文芸家諸君は、論理よりも常識の方に親んでゐるから、あんな馬鹿げた問答もせず、あんな非常識な借り方もしようとはしないに違ひない。その頃にしても、仮りにも金銭の貸借だからといふので保証人を必要とした。が文芸家にとつては保証なぞは何でもない。判さへ押せばそれで済むことぢやないか。で誰でもが誰でもの保証をした。その結果は、甲が乙のために保証をすると同時に、乙が甲のために保証人となつて、極めて和やかに円満に事が運んだものなのである。お互ひに保証し合ふ。なんと見事な親和ではないか。一方が一方を保証しただけでは完全といはれまい。お互ひが信じ合ふといふところにすばらしい人生がある、すばらしい社会の調和がある。どうだ君、この金で一杯祝盃を挙げようぢやないかと、双方ともに重たくなつたポケットを叩いたものなのであつた。だがもうそんな時代は十八世紀よりももつともつと遠い処へまで行つてしまつてゐる。文芸家協会は依然として存在するのであるが、文芸の代が変つてしまつた。代が変ると家主の性質なども一変するものである。メンデルの法則などといふが、遺伝といふものは肉体の上にだけ現はれるものであらう。文芸や家賃の取立てなどといふものは精神上の仕事である。
 家主といへば親みたいもので、と講釈師や落語家は喋り出す。彼等の時勢遅れがこのやうなところにも暴露されてゐる、といつてしまへばそれまでのことだが、古風な家主さんといふのも、稀にはゐないことではない。私の友人で新国劇の文芸部にゐるのが、この借家難の折柄に一軒恰好なのを見つけ出した。芝居へ勤めてゐるなぞは勤め人の部類に入ることではないのに、これは奇蹟みたいな話である。次第を聞くと、新国劇だといつたらすぐ、それはお堅いところでと、うなづいてくれて、沢田正二郎といふ人は立派な方でしたといつたのださうである。沢田正二郎が死んで今年は十年になる。それなのにこの沢田の人格に信頼して即座に貸してくれたなどとはまことに美談ではないか。で聊か恐縮しながら、保証人はといふと、新国劇が保シヨウしてゐればそれでもう充分ですとの返事だつたのださうである。保シヨウ。諸君はこのシヨウの字をどう判断する? 新国劇は彼の生活を保障してゐる。生活の保障があるかぎり保証なんぞは要らないぢやないか。あゝ保障は保証であるのだ。さう考へて来ると私はまたあの拓務大蔵といふのを思ひ出す、官吏には身分保障令といふのがある。官吏の方に限り金融などといふのがあるが、法律といふ格子が彼等を保証してゐるのだ。格子づくりの囲ひ者といふが、格子の向うに居る人間ならば安心と考へるのは人情であらう。格子の外にゐる奴等はいつ逃げ出さんとも限らない。あの婆さんが、格子の中から私を見て、横皺縦皺を海草のごとく揺がしたのも謂れなきことではないかもしれない。よしんば私に格子の縁があるにしても、それは原稿紙の角格子である。紙の格子では誰も信用してくれる筈がない。
 とはいへ世は様々なものである。私が以前に借りてゐた大森の家の家主さんなぞは、古風、大古風の部に属してゐたのだらう。率直に私が原稿書きである旨を述べると、では入るときには入るが入らんときには入らん御商売ですなといつた。その通りですと答へると、しかし入るときには入るのだから安心なものですなといつて承知してくれた。人間が人間を信ずるのは、いつの場合でもかくのごとく鷹揚でありたいものである。
 さて、こゝで私は頌徳の意をもつてこの大古風鷹揚の家主さんについて一寸語りたく思ふ。語りたく思ふのは一寸であるが、しかしこれは一つの長い物語でもある。いや単なる物語ではない。それは、優しい人情といふものがいかに他人を溺歿させ、細やかな心遺ひといふものがいかに他人の処世を謬らせ、鷹揚の徳といふものも遂に店賃を滞らせることに役立つのみで却つて損となり、つまりはすなはち古風は結局が古風であつて今様当世のものではあり得ないといふ教訓を含むところの道話ですらあるのである。

 事実が語る。事実は何よりも雄弁なものだ。だから私は立派な道話であり見事な小説でさへあるといつたところで、何もこれを道話的にもしくは小説的に話す必要はあるまい。偉大なる傑作といふものは、その簡単な梗概だけでさへも充分に人を感動せしめるものだ。いや何も傑作とは限らない。その辺の大衆小説などは却つてその梗概だけの方が面白かつたりするものだ。だから競つて映画会社が原作料を払つて脚色する。脚色とは、脚がかりだけを拾つて、それを色づけることだ。原作
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