な人格政治家だがしかし、とまた場合を考へみるがいゝ。問題はその『しかし』以下に潜むことになる。その『しかし』以下を引きめくることで折角の立派な人格政治家といふ履歴も減茶苦茶になつてしまふではないか、否定なのか肯定なのか、甚だ漠然として極めて曖昧な妖気だけがそこに漂ふのである。もしもこの『しかし』といふ言葉が存在しなかつたならば、この世の人生は極めて簡単なものとなつてゐたに相違ないと私は思ふ。犬の吠えるのを見るがいゝ。馬の嘶くのを聞くがいゝ。彼等は吠えたり嘶いたりするとき、まつたく純真にそれ一方であつて、決して、しかし、などとはいはないものだ。とすればこの『しかし』こそ人間性とでもいふべきであらうか。英国の劇作家に「もしも」といふ題で脚本を書いた男がある。だかこの『しかし』に比べれば『もしも』など浅薄低俗極まるものと云ふことができる、『しかし』こそ現実的であつて、『もしも』なぞはたわいなき浪漫派であるにすぎない。ところで私もしかしといひ、家主の方もしかしといつた。この二つの『しかし』はしかし果たして一つの『しかし』であつたらうか?
 両者の間の最初の一致が、『しかし』から以下で不一致になり決裂する例を、わたしはしば/\ならず見てしつてゐる。ヒットラーもチェンバーレンも、平和を愛好するといふことでは一致したのだ。しかし、とそれから問題が紛乱したのである。私は声を呑んだ。そして先方のしかしから以下を聴かうとした。だが家主さんの方も同じく声を控へた。私の方は柄にもない警戒心からであつたが、家主さんの方は慇懃なる儀礼からであつたらう。私はその時のその人の人相に感動した。円満な顔つきの上に福徳の微笑をたゝへながら、私のいひ出すしかし以下の言葉を迎へようとしてゐたのだ。あゝこのことがすでに世の常の家主ではない。かういふ長者に対して、どうして家賃の高下などいひ出せようぞ。
 しかし、と私はやつといつた。敷金は幾つですか? はい、三つといふことにしてはあるのですがな、と長者は答へた。この語法を篤と吟味して戴きたいと思ふ。してあるのですといふのと、してはあるのですが、といふのとでは天と地の相違ではないか。だが私は途端に、三つにも幾つにもまだ肝腎の家賃について尋ねてゐなかつたことに気がついたのであつた。しかしその一体、家賃はいかほどなのでせうか? すると長者はまたその語法に従つてかう答へた。はい、七十五円といふことにしてはあるのですが。
 ニュース映画で私は、ミュンヘン協定調印の場といふのを観たことがある。どのやうな凄惨な劇映画もかつてあれほどの感動を私に与へたことはない。談判が成立してお互ひが握手した筈の場面でありながら、それは拳闘場のやうな空気であつた。なにやら不穏な不安な暗澹たるものがその広間中一杯に漲つて写つてゐた。どのやうな名優もかつてあれほどの真剣な表情で現はれて来たことはない。ヒットラーは豹のやうに眼を光らせて歩いてゐ、ムッソリーニは闘牛のやうに張り切つて一隅に突つ立つてゐ、そしてチェンバーレンは馬のやうにやゝ暗いところでその背を跼めてゐた。フランスの宰相などは叱られた事務員のやうにどこかへ姿を隠してしまつてゐた感じでもあつた。勿論私がこの映画を観たのはあの家主さんと会談した時よりもずつと後年のことである。だか私はそれを観ながら、しみじみと思ひ出してゐたのであつた。同じ会談でありながら、どうしてかうも夜と昼、もう一ついはして貰へれば天国と地獄、なのであらうか。思ふに多分あのミュンヘンでは、長者的語法などといふものが用ゐられなかつたのであらう。長者的語法は人を寛闊な精神の中に導き入れ、隔心のない声で語らせ、そして赤裸々に正直なところを打ち明けさせる。私は家主さんに自分の貧乏を話した。貯金が一銭もないことを語つた。だから出来れば家賃も負けて貰ひたく、敷金も数を減らして貰ひたいといふ意中を申し述べた。すると家主さんは依然として長者風に、御尤もですとうなづいてくれた。さうしてから、しかし、と己がしかしについて語りはじめたのである。
 しかし、奥さんと御相談なさらずにお決めになつてもよろしいのですか? 何んのこつた。家主さんのしかしはそんなしかしであつたのか、私は笑つた。いや、私んとこでは私が主人ですよ、すると長者さんは、いかにも長者らしく顔をしかめて、それはいけませんよ、男といふものは外へ出て得手勝手ができるのだから、せめて家のこと位は奥さんの御勝手を認めておやりなさい。家庭は平和が大切ですぜ。
 家主さんのこの御忠告は道理である。だがこゝにそんな事まで書くことは聊か余計な事ではないかとお思ひになる諸君がおありかもしれない。がそれはそれとして、次の一挿話を読んで戴きたい。

 三つの敷金を二つにしてくれた。七十五円といふ家賃は、その建物として
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