の俤をつたへるとかつたへぬとかいふが、脚がかりなどといふものはどの作品も大概が千篇一律のものである。だから脚色映画のどれもが千篇一律の体を見せたとしてもそれは映画の責任ではない。だが私がいま話し出すことだけは到底常凡の脚がかりではない筈だ。平凡な三面記事の間に交つて、時折信じられないニュースが現はれるやうに、そしてそれがニュースといふべきものだが、とにかく、ざつとのあらましを伝へただけで諸君は早くも仰天するに違ひなからうと思ふ。
 門があつた。私は中へ入つた。庭があつた。私はその庭を眺めた。一目で私は気に入つてしまつた。なぜならそれは他人に見せるために作られたのではなく、その家の主人が楽しむためだけに作られたものであることが判つたからだ。この流儀の造園術といふものは今日ひどく廃れてしまつてゐる。どこへ行つても庭は装飾の中に粉れこんでしまつてゐる。結城織といふやうな反物でさへが今日では見てくれのために着られて来てゐるやうに、茶室といふものさへ風雅のためよりも交際のために用ゐられてゐる。岡倉天心は『茶の本』を書いたが、いまの世の人々にとつては、それを読むことが良識を語り合ふための便宜であるからにすぎない。あゝ良識といふものさへが人間の装飾物となつてしまつたのだ。私は感慨居士だから、忽ちにして雑然といろ/\なことを思ひ浮べる。私は家の中へ入つた。木口がよろしい。古いがしかし木口がよろしい。古いからよろしいのかも知れぬ。新しい建築だつたらどこかにアメリカニズムの影響があらう。米国材といふやつはどう日本的に工作して見てもどこかで区別がつく。私の知つてゐるアメリカ人は、毎朝味噌汁を喜んでゐたが、しかしいつもその中へ一塊のバタを叩き込んでゐた。そしていつの場合でもおのれが女房に憚つてばかりゐた。その女房といふのは生枠の日本の女であつたのであるが。
 便所は水洗式になつてゐる。あゝこのアメリカニズムだけはよろしい。しかし私は気に入つてしまつたのはそんなことではない。全体が二棟になつてゐて、しかも母家が平家で離家の方が二階であつたことだ。私は勤め人ではないから自然と家庭主義者ではない。勤め口を待つてゐれば余儀なく家庭を外にして出かけねばならぬ。余儀なくさせられたとき反撥の感情が起る。自然と勤め人諸君は家庭を恋ふる心理へと落されるではないか。しかし私にはその余儀なさがない。その結果私の
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