遺妻と三人の子供とをつれて、どこへか遠く漂泊し去つたというのみでそれ以上、何の手がゝりもありませんでした。
牧師へのウ※[#小書き片仮名ヲ、398−上−2]ルターの手紙だけでは、むろん、彼が語つてゐる、全事実の真偽が、疑へば疑はれないこともないわけですが、この医師の手紙によつて、すべてが十分符合するところへ、たま/\、なほ一通、さきに、牧師がウ※[#小書き片仮名ヲ、398−上−5]ルターを乗組員に托した、あの貨物汽船の船長から次のやうな報告が来ました。
「かのウ※[#小書き片仮名ヲ、398−上−8]ルターが、コロンボで下船して遁走しましたことは、すでにお話ししましたが、その後、私は、最近、はからずも、アデンの、チグリス河の河岸で彼に出会ひました。彼はアラビヤ人の遊牧民に仮装してゐましたので、彼の方からよびかけられなかつたら、私は全然気づかないでしまふところでした。その異やうななり[#「なり」に傍点]をした彼は、河岸につないだぼろけたモーターボウトの破損箇所へ、いかけ[#「いかけ」に傍点]をしてゐました。彼は、おゝ船長と、全で毎日会つてゐる人にいふやうに、のんきに私をよびかけました。私はあまりの意外に、びつくりしました。
何だつて、そんなざま[#「ざま」に傍点]をしてるのだ、と聞きますと、だつて遊牧民になつたんだから仕方がないと言ひます。どうしたのだ、その左の手はと私は、これにも、おどろいて聞きました。着物の左手が、空つぽで、ふは/\してゐたからです。すると、彼はこれはトルコ人に聞いてくれないと分らない、少しばかりイギリスのために動きまはつたもので、と答へます。――何をしたんだ。――何だつていいよ――で、そのボウトで、どこかへいくのか。――商ばひで、バスラまで――何を売りにいくのだ。――機械じかけの玩具と、軍服と、それからまだいろ/\のものを売りつけにいくんだ。――ふうん、それが、バスラではけ[#「はけ」に傍点]るかね。――さああんまり、よろこびもしまいけれど。――彼はかう言つて、にた/\笑ひながら、何か悪企でも抱いてゐるやうなずるい笑ひを見せて河岸へ上つていきました。これだけです。彼からは、コロンボでの下船以来、それとも最近に何か音信が来ましたか。」
船長はウ※[#小書き片仮名ヲ、398−下−13]ルターを国家のためにあれだけのりつぱな手柄をした勇士とは思はず、たゞ、じぶんの船からにげ出した、相かはらずのなぐれもの[#「なぐれもの」に傍点]ゝ一人の後日談として告げて来たのです。牧師は、いつも言つてゐます。
「こんなわけで、ウ※[#小書き片仮名ヲ、398−下−17]ルターは、今もつて、つひにどこからも一片の表彰をされたこともなく、この先も永久に、一人のかくれた偉人としてをはるわけですが、彼のこの絶大な勇気と、このりんぜん[#「りんぜん」に傍点]たる愛国的奉仕とは、いつ/\までも神と人間との前に、無限の霊光をはなつものでなければなりません。」ホームス牧師は、かう言ひつゝ常に熱涙をながして彼のおどろくべき事蹟を語るのでした。
底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第八巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年9月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
1927(昭和2)年11月〜1928(昭和3)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2007年2月19日作成
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