、つい火気《かっき》で目がくらんで子どもをはなしてしまい、じぶんも間もなく橋と一しょに落ちこんで流れていったのだと話していました。隅田川《すみだがわ》にかかっていた橋は、両国橋のほかはすべて焼けおちてしまいました。
浜町《はまちょう》や蔵前《くらまえ》あたりの川岸《かわぎし》で、火におわれて、いかだ[#「いかだ」に傍点]の上なぞへとびこんだ人々の中には、夜《よ》どおし火の風をあびつづけて、生きた思いもなく、こごまっていた人もあり、中にはくび[#「くび」に傍点]のあたりまで水につかって、火の子が来るともぐりこみ、もぐりこみして、七、八時間も立ちつづけていた人もあったそうです。
三
こういう話をならべ上げればかぎりもありません。
同時に、一方では、あのおそろしい猛火と混乱との中で、しまいまで、おちついて機敏に手をつくし、または命をまでもなげ出して、多くの人々をすくい上げた、いろいろの人々のとうといはたらきをも忘れてはなりません。たとえば、これまで深川の貧民たちのために尽力していた、富田老巡査のごときは、火の危険な街上にしまいまで立ちつくして、みんなを安全な方向ににがし/\したあげく、じぶんはついに焼け死んでしまいました。また、下谷から焼け出された或四十がっこうの一婦人は、本郷の大学病院の後《うしろ》までにげて来ると、火の手はだんだんにそこへものびて来そうになりました。その一角には、地震でこわれかけた家々が、いる人もなく立ちのこっています。その家々へ火がついたら、すぐに病院へもえうつるわけです。婦人はそれを考えて、そこらへにげて来ている人たちをはげまし、綱なぞをあつめて来て、それでもって、みんなと一しょに、今言った家々をたおしておいて立ちのいたと言われています。あんのごとく火はちょうど、そこのところまで来てとまりました。
つぎには、これは築地《つきじ》の、市の施療院《せりょういん》でのことですが、その病院では、当番の鈴木、上与那原《かみよなはら》両海軍軍医|少佐《しょうさ》以下の沈着なしょちで、火が来るまえに、看護婦たちにたん[#「たん」に傍点]架をかつがせなどして、すべての患者を裏手のうめ立て地なぞへうつしておいたのですが、同夜八時ごろには病院も焼け落ち、十一時半には構内にある第一火薬庫がばく[#「ばく」に傍点]発し、第二火薬庫もあやうくなりま
前へ
次へ
全14ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
鈴木 三重吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング