私はあまり人のざわつくところは厭だもんですから。――その代り宿屋なんぞのないということははじめから承知の上なんでしたけれど、さあ、船から上ってそこらの家《うち》へ頼んでみると、はたしてみんな断ってしまうでしょう。困ったんですよ」
婦人は微笑む。
「それでしかたがないもんだから、とうとのこのこ役場へやって行ったんでした。くるくる坊主ですねここの村長は」
「ええ、ほほほ」
「そしたらあの人が親切に心配してくれたんです」
「そしてここの小母さんに、私は母というものがないんだから、こんな家へ置いてもらったらいいのですがって、そうおっしゃったのですってね」
「そうでしたかなあ。とにかく小母さんを一と目見るとから、何かしら懐しくなったんです」
「そんなにおっしゃったものですから、小母さんもしおらしい方だと思って、お世話をする気になったんですって」
「私は今では小母さんが生みの親のように思われるんですよ。私の家にいたって何だか旅の下宿にでもいるような気がするんですもの」
「小母さんも青木さんはあたし[#「あたし」に傍点]の内証の子なんだかもしれないなんて冗談をおっしゃるんですよ」
「あ、いつか小母さんが指へ傷をしたというのはもう直ったのですか」
「ええただナイフでちょっと切ったばかりなんですから」
二人はこのような話をしながら待っている。築地《ついじ》の根を馬の鈴が下りてゆく。馬を引く女が唄を歌う。
障子《しょうじ》を開けてみると、麓《ふもと》の蜜柑畑が更紗《サラサ》の模様のようである。白手拭を被った女たちがちらちらとその中を動く。蜜柑を積んだ馬が四五匹続いて出る。やはり女が引いている。向いの、縞《しま》のようになった山畠に烟《けむり》が一筋揚っている。焔《ほのお》がぽろぽろと光る。烟は斜に広がって、末は夕方の色と溶けてゆく。
女の人も自分のそばへ寄って等しく外を見る。山畠のあちらこちらを馬が下りる。馬は犬よりも小さい。首を出してみると、庭の松の木のはずれから、海が黒く湛《たた》えている。影のごとき漁船《りょうせん》が後先になって続々帰る。近い干潟《ひがた》の仄白い砂の上に、黒豆を零《こぼ》したようなのは、烏の群が下りているのであろうか。女の人の教える方を見れば、青松葉をしたたか背負った頬冠りの男が、とことこと畦道《あぜみち》を通る。間もなくこちらを背にして、道について斜に折れると思うと、その男はもはや、ただ大きな松葉の塊《かたまり》へ股引の足が二本下ったばかりのものとなって動いている。松葉の色がみるみる黒くなる。それが蜜柑畑の向うへはいってしまうと、しばらく近くには行くものの影が絶える。谷間谷間の黒みから、だんだんとこちらへ迫ってくる黄昏《たそがれ》の色を、急がしい機《はた》の音が招き寄せる。
「小母さんは何でこんなに遅いのでしょうね」と女の人は慰めるようにいう。あたりは見るうちに薄暗くなる。女の人がちょっと出て行って、今度帰って坐った時には、向き合いになってももう面輪《おもわ》が定かに見えない。
女の人は、立って押入から竹|洋灯《ランプ》を取りだして、油を振ってみて、袂から紙を出して心《しん》を摘む。下へ置いた笠に何か書いた紙切れが喰っついている。読んでみると章坊の手らしい幼い片仮名で、フジサンガマタナクと書いてある。
「あら」と女の人は恥かしそうに笑ってその紙を剥《は》がす。
「章ちゃんがこんな悪戯《いたずら》をするんですわ。嘘ですのよ、みんな」と打消すようにいう。
「何の事なんです、これは」
「ほほほ」
「フジサンというのは」
「あたしでございます」
「ああ、お藤さんとおっしゃるんですか」
「はい」と藤さんは微笑みながら、立って押入れを探す。
藤さんという名はこうして知ったのである。
「そしてあなたが何でお泣きになったんです?」
「いいえ、嘘ですの、そんなことは」
「燐寸《マッチ》を探していらっしゃるんですか。私が持っています」
「あら、冗談なのでございますわ。あれは章ちゃんが……」と勘違えをしている。ポケットから燐寸を出して洋灯を点《とも》すと、
「まあ、恐れ入ります」と藤さんは坐る。灯火《ともしび》に見れば、油絵のような艶《あでや》かな人である。顔を少し赤らめている。
「あし[#「あし」に傍点]が一番あん」と章坊が着物を引っ抱えて飛びだすと、入れ違いに小母さんがはいってきて、シャツの上から着物を着せかけてくれる。
「さ、これをあげましょう」と下締《したじめ》を解く。それを結んで小暗い風呂場から出てくると、藤さんが赤い裏の羽織を披《ひろ》げて後へ廻る。
「そんなものを私に着せるのですか」
「でもほかにはないんですもの」と肩へかける。
「それでも洋服とは楽でがんしょうがの」と、初やが焜炉《こんろ》を煽《あお》ぎながらい
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