千鳥
鈴木三重吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)馬喰《ばくろう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|洋灯《ランプ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》っている
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 千鳥の話は馬喰《ばくろう》の娘のお長で始まる。小春の日の夕方、蒼ざめたお長は軒下へ蓆《むしろ》を敷いてしょんぼりと坐っている。干し列べた平茎《ひらぐき》には、もはや糸筋ほどの日影もささぬ。洋服で丘を上《あが》ってきたのは自分である。お長は例の泣きだしそうな目もとで自分を仰ぐ。親指と小指と、そして襷《たすき》がけの真似《まね》は初やがこと。その三人ともみんな留守だと手を振る。頤《あご》で奥を指《ゆびさ》して手枕をするのは何のことか解らない。藁《わら》でたばねた髪の解《ほつ》れは、かき上げてもすぐまた顔に垂れ下る。
 座敷へ上っても、誰も出てくるものがないから勢《はずみ》がない。廊下へ出て、のこのこ離れの方へ行ってみる。麓《ふもと》の家で方々に白木綿を織るのが轡虫《くつわむし》が鳴くように聞える。廊下には草花の床《とこ》が女帯ほどの幅で長く続いている。二三種の花が咲いている。水仙の一と株に花床が尽きて、低い階段を拾うと、そこが六畳の中二階である。自分が記念に置いて往った摺絵《すりえ》が、そのままに仄暗《ほのぐら》く壁に懸っている。これが目につくと、久しぶりで自分の家《うち》に帰ってきでもしたように懐《なつか》しくなる。床の上に、小さな花瓶に竜胆《りんどう》の花が四五本挿してある。夏二た月の逗留《とうりゅう》の間、自分はこの花瓶に入り替りしおらしい花を絶やしたことがなかった。床の横の押入から、赤い縮緬《ちりめん》の帯上げのようなものが少しばかり食《は》みだしている。ちょっと引っ張ってみるとすうと出る。どこまで出るかと続けて引っ張るとすらすらとすっかり出る。
 自分はそれをいくつにも畳んでみたり、手の甲へ巻きつけたりしていじくる。後には頭から頤《あご》へ掛けて、冠《かんむり》の紐《ひも》のように結んで、垂れ下ったところを握ったまま、立膝になって、壁の摺絵を見つめる。「ネイションス・ピクチュア」から抜いた絵である。女が白衣の胸にはさんだ一輪の花が、血のように滲《にじ》んでいる。目を細くして見ていると、女はだんだん絵から抜けでて、自分の方へ近寄ってくるように思われる。
 すると、いつの間にか、年若い一人の婦人が自分の後に坐っている。きちんとした嬢さんである。しとやかに挨拶をする。自分はまごついて冠を解き捨てる。
 婦人は微笑《ほほえ》みながら、
「まあ、この間から毎日毎日お待ち申していたんですよ」という。
「こんな不自由な島ですから、ああはおっしゃってもとうとお出でくださらないのかもしれないと申しまして、しまいにはみんなで気を落していましたのでございますよ」と、懐かしそうに言うのである。自分は狐にでもつま[#「つま」に傍点]まれたようであった。丘の上の一《ひと》つ家《や》の黄昏《たそがれ》に、こんな思いも設けぬ女の人がのこりと現れて、さも親しい仲のように対してくる。かつて見も知らねば、どこの誰という見当もつかぬ。自分はただもじもじと帯上を畳んでいたが、やっと、
「おば[#「おば」に傍点]さんもみんな留守なんだそうですね」とはじめて口を聞く。
「あの、今日は午過ぎから、みんなで大根を引きに行ったんですの」
「どの畠へ出てるんですか。――私ちょっと行ってみましょう」
「いいえ、もうただ今お長をやりましたから大騒ぎをして帰っていらっしゃいますわ」
「さっき私は誰もいないのだと思って、一人でずんずんここへ上ってきたんでした」と言って、お長が手枕の真似をしたことを胸に浮べる。女の人は少し頭痛がしたので奥で寝《やす》んでいたところ、お長が裏口へ廻って、障子を叩いて起してくれたのだと言う。
「もう何ともございません」と伏し目になる。起きて着物をちゃんとして出てきたものらしい。ややあって、
「あなたはこの節は少しはおよろしい方でございますか」と聞く。自分の事は何でもすっかり知っているような口ぶりである。
「どうもやっぱり頭がはきはきしません。じつは一年休学することにしたんです」
「そうでございますってね。小母さんは毎日あなたの事ばかり案じていらっしゃるんですよ。今度またこちらへお出でになることになりましてから、どんなにお喜びでしたかしれません。……考えると不思議な御縁ですわね」
「妙なものですね。この夏はどうしたことからでしたか、ふとこちらへ避暑に来る気になったんですが、――
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