ない、ずっと先の事であったし、小母さんは大変に藤さんを可愛がって、後には夜も家へ帰すよりか自分の側へ泊らせる方が多いくらいにしていた。はじめそこへ移ってきた翌《あく》る日であったか、藤さんがふと境の扇骨木垣《かなめがき》の上から顔を出して、
「小母さま。今日は」と物を言いかけたのが元であった。藤さんが七つ八つにすぎぬころであったろう。それから四五年してここの主人が亡くなって、小母さんはこちらへ住居をきめることになった。別れの時には藤さんも小母さんも泣いた。藤さんはその後いつまでも小母さん小母さんと恋しがって、今日まで月に一二度、手紙を欠かしたことはない。藤さんの家は今佐世保にあるのだそうで、お父さんは大佐だそうである。
「それでは佐世保からはるばる来たんですか」
「いいえ、あの娘《こ》だけは二た月ばかり前から、この対岸《むかい》にいるんです。あなたでも同《おんな》じですけれど、こんなになると、情合はまったく本当の親子と変りませんわ」
「それだのにこの夏には、あの人の話はちょっとも出ませんでしたね」
「そうでしたかね。おや、そうだったかしら」
「そして私の事はもうすっかりあの人に話してあるようですね」
「ふふふそれはあなた、家では何とかいうとすぐあなたの話が出るんですから、あの人だって、まだ見もしないうちからもう青木さん青木さんと言って、お出でになってもまるで兄妹《きょうだい》かなぞのように思っているんですもの」と章坊の枕を直してやる。
「さっきもね、初やから、お嬢さんは存外人に恥かしがらない方だとかなんとか言ってからか[#「からか」に傍点]われたんでしょう。そうするとね、だってあの方はもうよくお知り申してる方なんだものってそう言うんですよ。それでいてまだずいぶん子供のようなところがあるんですからね」
「私だって何だか、はじめて会った人のようには思えませんよ。――まだ永く逗留《とうりゅう》するんですか」
「あの娘《こ》ですか。そうですね……いったい今度こちらへまいったというのが……」
 しまいを欠《あくび》といっしょに言って、枕へ手を添えたと見ると、小母さんはその後を言わないで、それなりふいと眉毛のあたりまで埋まりこんでしまう。しばらく待ってみても容易にふたたび顔を出さない。蒲団の更紗へ有明行灯《ありあけあんどん》の灯《あかり》が朧《おぼろ》にさして赤い花の模様がどん
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