来ごとが、永年来、なくてすんで来たからです。近いれいとしてはネルソンを上げませう。ネルソンはトラファルガーの海戦には、片手をもぎとられても、なほ艦隊運動の命令を下しつゞけ、命をなげ出して指揮をしました。それから、つぎにお話ししなければならないのは……」
ちようどそのとき、小間物屋のまへに来ました。ミスは買ひものがありました。トゥロットは、ぢきそばの散歩道のとこまで歩いていきました。そこのとこでまつてゐようと思つたからです。ミスは店の中へはいりました。トゥロットは、こちらへはなれてしまひました。
トゥロットは、けふはいろんな英雄のお話を聞きすぎました。レオニダス、ネルソン、スケボラ、コクレス、リシャール、これだけの人が頭の中でをどりまはります。トゥロットは、両うでをふり歯をむき出して、散歩道をいつたり来たりしてゐました。しかしトゥロットのうでは、ミスのうでのやうに大きくもなく、黄色くもないのでいせい[#「いせい」に傍点]がありません。
ミスといふ人は、あんなにありつたけの徳性の話をしつてるのですから、じぶんでも、よほど徳性をどつさりもつてゐるにそうゐありません。トゥロットはミスがあまりすきではありませんが、でも、えらい人だとは十分おもつてゐます。
トゥロットは、とても三百人の人を……三百人を殺すのだつたかしら……三百人はとても一人では殺せさうもありません。じぶんでじぶんの手をランプで焼くつてことも出来ません。一ど、ろうそくでやけどをして泣いたくらゐですもの。ミスは、さつき、スケボラのやうに……何とかスケボラだつたつけ……あゝ、ムシュウス・スケボラだ。そのスケボラのやうにうでをつき出しました。でも、あひにくそばにランプがありません。もしランプがあつたら、ミスは手をやいたにちがひありません。あんなかさ/\の手だから、をしげもなく焼いたにきまつてゐます。
ミスがネルソンになつたら、どんなにすばらしい、はたらきをしたでせう。トゥロットはミスが襟《えり》のたかい海軍服を着て、ばかに長い片うでをぶら下げて、キイ/\声で号令をかけるすがたをおもひうかべて見ました。
ミスは、そのつぎには、レオニダス、コクレス、スケボラ、それからもう一ぺんネルソンのすがたになつてあらはれました。そのほかの人たちは、みんなで一つのすがたになつて浮びました。そのすがたといふのは……
おや、どうしたんでせう。ミスは? あら、何をふざけるのでせう。ほう、とんだり、はねたり狂人娘《きちがひむすめ》のやうに、くる/\まはりをしたりしてゐます。ミスがあんなことをするのは、はじめてです。
おゝ、ちらりとうしろへ目を向けました。おや、くるりと向きかはつて日がさをふりまはし、をかしな声でさけびながら、あとしざりをしはじめました。
どうしたんでせう。トゥロットは、しんぱいでたまらなくなりました。
三
あゝ、やつとわかつた。パン屋のちん[#「ちん」に傍点]はいやな犬です。あいつは、だれにでも、ウヽ/\うなつてとびかゝります。どうしたわけか、イギリス人の女をひどくきらふやうです。
そのちん[#「ちん」に傍点]が、今、うなりたけつて、ミスにとびかゝつてゐるのでした。うしろへひきさがつたかとおもふと、なほひどくうなつてとびつき、あと足で立ち上り、つぎには地びたへうづくまつて、きみわるく歯をむき出しました。はゝあ、あの犬をぢやらしたのは、きつと、ミスのふくらはぎ[#「ふくらはぎ」に傍点]です。ミスの靴下です。をかしな犬もゐたものだ。あの犬が、骨をしやぶつてゐるのを、よく見かけました。
ほう、だん/\にはげしくつッかゝつて来ます。イギリスの女を食べてしまはうと、腹をきめたのでせう。ミスの頬《ほほ》はまつ青《さを》になりました。たゞ鼻だけが、危険におちいつた船の信号燈のやうに赤くもえたつてゐます。ちんはぐん/\そばへ来て、狂つたやうに、ミスのぐるりをかけまはります。それこそ、日がさでおどかしても、やさしい言葉をかけても、きゝはしません。だいたんにも鼻先で、ミスのスカートをひつかきます。
がつしりしたちん[#「ちん」に傍点]の歯は、ミスのすねの骨ぐみへ、くひつきかけました。ミスはふだんから、わけもなく犬がこはくてたまらない人です。ミスは、今はもう、こめかみをがく/\させ、全身につめたいふるへ[#「ふるへ」に傍点]を走らせました。冷汗《ひやあせ》がかさ/\の背中へじつとりとたまりました。もう、泣かんばかりの顔をして、たすけをさけばうとしてゐます。でもたつた一つ、ミスがイギリス人であるといふ誇りから、なきごゑを出すわけにもいきません。
戸口に立つて、うす笑ひをかくしてゐたパン屋の店のものは、どつとふき出しました。
攻撃は、いよ/\もうれつになりました。ちんのい
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