そくそれをはぎ取って、自分の家内《かない》に持ってかえってやりました。
 そのうちに宮中にあるご宴会《えんかい》があって、臣下の者の妻女たちが、おおぜいお召《め》しにあずかりました。すると大楯連《おおだてのむらじ》の妻は、女鳥王《めとりのみこ》のお腕飾りを得意《とくい》らしく手首に飾《かざ》ってまいりました。皇后はそれらの女たちへ、お手ずから、お酒を盛《も》るかしわの葉をおくだしになりました。みんなはかわるがわる御前《ごぜん》へ出て、それをいただいてさがりました。
 皇后はそのときに、ふと、連《むらじ》の妻の腕飾りにお目がとまりました。するとそれはかねてお見覚《みおぼ》えのある女鳥王《めとりのみこ》のお持物《もちもの》でしたので皇后はにわかにお顔色をお変えになり、この女にばかりはかしわの葉をおくだしにならないで、そのまますぐにご宴席《えんせき》から追い出しておしまいになりました。そしてさっそく夫の連《むらじ》をお呼《よ》びつけになって、
「そちは人の腕飾りをぬすんで来て家内にやったろう。あの速総別《はやぶさわけ》と女鳥《めとり》の二人は、天皇に対して怖《おそ》ろしい大罪を犯そうとしたのだから、かれたちが殺されたのはもとよりあたりまえである。しかしそちなぞからいえば、二人とも目上の王《みこ》たちではないか。その人が身につけている物を、死んでまだ膚《はだ》のあたたかいうちにはぎとって、それをおのれの妻に与《あた》えるなぞと、まあ、よくもそんなひどいことができたね」とおっしゃって、ぐんぐんおいじめつけになったうえ、ようしゃなくすぐ死刑《しけい》に行なわせておしまいになりました。

       五

 この天皇の御代《みよ》に、兎寸川《とさがわ》というある川の西に、大きな大きな大木が一本立っておりました。いつも朝日がさすたんびに、その木の影《かげ》が淡路《あわじ》の島までとどき、夕日《ゆうひ》が当たると、河内《かわち》の高安山《たかやすやま》よりももっと上まで影がさしました。
 土地の者はその木を切って船をこしらえました。するとそれはそれはたいそう早く走れる船ができました。みんなその船に「枯野《からの》」という名前をつけました。そして朝晩それに乗って、淡路島《あわじしま》のわき出るきれいな水をくんで来ては、それを宮中《きゅうちゅう》のお召《め》し料にさしあげておりました。
 後にみんなは、その船が古びこわれたのを燃やして塩を焼き、その焼け残った木で琴《こと》を作りました。その琴をひきますと、音が遠く七つの村々まで響《ひび》いたということです。
 天皇はついにおん年八十三でおかくれになりました。
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 大鈴《おおすず》小鈴《こすず》

       一

 仁徳天皇《にんとくてんのう》には皇子《おうじ》が五人、皇女《おうじょ》が一人おありになりました。その中で伊邪本別《いざほわけ》、水歯別《みずはわけ》、若子宿禰《わくごのすくね》のお三方《さんかた》がつぎつぎに天皇のお位におのぼりになりました。
 いちばんのお兄上の伊邪本別皇子《いざほわけのおうじ》は、お父上の亡《な》きおあとをおつぎになって、同じ難波《なにわ》のお宮で、履仲天皇《りちゅうてんのう》としてお位におつきになりました。
 そのご即位《そくい》のお祝いのときに、天皇はお酒をどっさり召《め》しあがって、ひどくお酔《よ》いになったままおやすみになりました。
 すると、じき下の弟さまの中津王《なかつのみこ》が、それをしおに天皇をお殺し申してお位を取ろうとおぼしめして、いきなりお宮へ火をおつけになりました。火の手は、たちまちぼうぼうと四方へ燃え広がりました。お宮じゅうの者はふいをくって大あわてにあわて騒《さわ》ぎました。
 天皇は、それでもまだ前後もなくおよっていらっしゃいました。それを阿知直《あちのあたえ》という者が、すばやくお抱《かか》え申しあげ、むりやりにうまにお乗せ申して、大和《やまと》へ向かって逃《に》げ出して行きました。
 お酔いつぶれになっていた天皇は、河内《かわち》の多遅比野《たじひの》というところまでいらしったとき、やっとおうまの上でお目ざめになり、
「ここはどこか」とおたずねになりました。阿知直《あちのあたえ》は、
「中津王《なかつのみこ》がお宮へ火をお放ちになりましたので、ひとまず大和《やまと》の方へお供《とも》をしてまいりますところでございます」とお答え申しました。
 天皇はそれをお聞きになって、はじめてびっくりなさり、
「ああ、こんな多遅比《たじひ》の野の中に寝《ね》るのだとわかっていたら、夜風《よかぜ》を防ぐたてごもなりと持って来ようものを」
と、こういう意味のお歌をお歌いになりました。
 それから埴生坂《はにうざか》という坂までおいでになりまして、そこから、はるかに難波《なにわ》の方をふりかえってご覧《らん》になりますと、お宮の火はまだ炎々《えんえん》とまっかに燃え立っておりました。天皇は、
「ああ、あんなに多くの家が燃えている。わが妃《きさき》のいるお宮も、あの中に焼けているのか」という意味をお歌いになりました。
 それから同じ河内《かわち》の大坂《おおさか》という山の下へおつきになりますと、向こうから一人の女が通りかかりました。その女に道をおたずねになりますと、女は、
「この山の上には、戦道具《いくさどうぐ》を持った人たちがおおぜいで道をふさいでおります。大和《やまと》の方へおいでになりますのなら、当麻道《たじまじ》からおまわりになりましたほうがよろしゅうございましょう」と申しあげました。
 天皇はその女の言うとおりになすって、ご無事に大和《やまと》へおはいりになり、石上《いそのかみ》の神宮《じんぐう》へお着きになって、仮にそこへおとどまりになりました。
 すると二ばんめの弟さまの水歯別王《みずはわけのみこ》が、その神宮へおうかがいになって、天皇におめみえをしようとなさいました。天皇はおそばの者をもって、
「そちもきっと中津王《なかつのみこ》と腹《はら》を合わせているのであろう。目どおりは許されない」とおおせになりました。王《みこ》は、
「いえいえ私はそんなまちがった心は持っておりません。けっして中津王《なかつのみこ》なぞと同腹《どうふく》ではございません」とお言いになりました。天皇は、
「それならば、これから難波《なにわ》へかえって、中津王《なかつのみこ》を討《う》ちとってまいれ。その上で対面しよう」とおっしゃいました。

       二

 水歯別王《みずはわけのみこ》は、大急ぎでこちらへおかえりになりました。そして中津王《なかつのみこ》のおそばに仕えている、曾婆加里《そばかり》というつわものをお召《め》しになって、
「もしそちがわしの言うことを聞いてくれるなら、わしはまもなく天皇になって、そちを大臣にひきあげてやる。どうだ、そうして二人で天下を治めようではないか」とじょうずにおだましかけになりました。すると曾婆加里《そばかり》は大喜びで、
「あなたのおおせなら、どんなことでもいたします」
 と申しあげました。皇子《おうじ》はその曾婆加里《そばかり》にさまざまのお品物をおくだしになったうえ、
「それでは、そちが仕えているあの中津王《なかつのみこ》を殺してまいれ」とお言いつけになりました。曾婆加里《そばかり》は、
「かしこまりました」と、ぞうさもなくおひき受けして飛んでかえり、王《みこ》がかわやにおはいりになろうとするところを待ち受けて、一刺《ひとさ》しに刺《さ》し殺してしまいました。
 水歯別王《みずはわけのみこ》は、曾婆加里《そばかり》とごいっしょに、すぐに大和《やまと》へ向かってお立ちになりました。その途中、例の大坂《おおさか》の山の下までおいでになったとき、命《みこと》はつくづくお考えになりました。
「この曾婆加里《そばかり》めは、私《わし》のためには大きな手柄《てがら》を立てたやつではあるが、かれ一人からいえば、主人を殺した大悪人である。こんなやつをこのままおくと、さきざきどんな怖《おそ》ろしいことをしだすかわからない。今のうちに手早くかたづけてしまってやろう。しかし、手柄《てがら》だけはどこまでも賞《ほ》めておいてやらないと、これから後、人が私《わし》を信じてくれなくなる」
 こうお思いになって急にその手だてをお考えさだめになりました。それで曾婆加里《そばかり》に向かって、
「今晩《こんばん》はこの村へとまることにしよう。そしてそちに大臣の位をさずけたうえ、あすあちらへおうかがいをしよう」とおっしゃって、にわかにそこへ仮のお宮をおつくりになりました。そしてさかんなご宴会《えんかい》をお開きになって、そのお席で曾婆加里《そばかり》を大臣の位におつけになり、すべての役人たちに言いつけて礼拝をおさせになりました。
 曾婆加里《そばかり》はこれでいよいよ思いがかなったと言って大得意《だいとくい》になって喜びました。水歯別王《みずはわけのみこ》は、
「それでは改めて、大臣のおまえと同じさかずきで飲み合おう」とおっしゃりながら、わざと人の顔よりも大きなさかずきへなみなみとおつがせになりました。そして、まずご自分で一口めしあがった後、曾婆加里《そばかり》におくだしになりました。曾婆加里《そばかり》はそれをいただいて、がぶがぶと飲みはじめました。
 王《みこ》は曾婆加里《そばかり》の目顔《めがお》がそのさかずきで隠《かく》れるといっしょに、かねてむしろの下にかくしておおきになった剣《つるぎ》を抜《ぬ》き放して、あッというまに曾婆加里《そばかり》の首を切り落としておしまいになりました。
 それからあくる日そこをお立ちになり、大和《やまと》の遠飛鳥《とおあすか》という村までおいでになって、そこへまた一|晩《ばん》おとまりになったうえ、けがれ払《ばら》いのお祈りをなすって、そのあくる日|石上《いそのかみ》の神宮へおうかがいになりました。そしておおせつけのとおり、中津王《なかつのみこ》を平《たい》らげてまいりましたとご奏上《そうじょう》になりました。
 天皇はそれではじめて王《みこ》を御前《ごぜん》へお通しになりました。それから阿知直《あちのあたえ》に対しても、ごほうびに蔵《くら》の司《つかさ》という役におつけになり、たいそうな田地《でんぢ》をもおくだしになりました。

       三

 天皇は後に大和《やまと》の若桜宮《わかざくらのみや》にお移りになり、しまいにおん年六十四でおかくれになりました。そのおあとは、弟さまの水歯別王《みずはわけのみこ》がお継《つ》ぎになりました。後に反正天皇《はんしょうてんのう》とお呼《よ》び申すのがこの天皇のおんことです。
 天皇はお身のたけが九|尺《しゃく》二寸五|分《ぶ》、お歯の長《なが》さが一|寸《すん》、幅《はば》が二|分《ぶ》おありになりました。そのお歯は上下とも同じようによくおそろいになって、ちょうど玉をつないだようにおきれいでした。河内《かわち》の多遅比《たじひ》の柴垣宮《しばがきのみや》で、政《まつりごと》をおとりになり、おん年六十でおかくれになりました。

       四

 反正天皇《はんしょうてんのう》のおあとには、弟さまの若子宿禰王《わくごのすくねのみこ》が允恭天皇《いんきょうてんのう》としてお位におつきになり、大和《やまと》の遠飛鳥宮《とおあすかのみや》へお移りになりました。
 天皇は、もとからある不治のご病気がおありになりましたので、このからだでは位にのぼることはできないとおっしゃって、はじめには固《かた》くご辞退《じたい》になりました。しかし、皇后やすべての役人がしいておねがい申すので、やむなくご即位《そくい》になったのでした。
 するとまもなく新羅国《しらぎのくに》から、八十一そうの船で貢物《みつぎもの》を献《けん》じて来ました。そのお使いにわたって来た金波鎮《こんばちん》、漢起武《かんきむ》という二人の者が、どちらともたいそう医薬のことに通じておりまして、
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