そのとき天皇は、山の上から四方の村々をお見わたしになりますと、向こうの方に、一|軒《けん》、むねにかつお木をとりつけているうちがありました。かつお木というのは、天皇のお宮か、神さまのお社《やしろ》かでなければつけないはずの、かつおのような形をした、むねの飾《かざ》りです。
天皇はそれをご覧《らん》になって、
「あの家はだれの家か」とおたずねになりました。
「あれは志幾《しき》の大県主《おおあがたぬし》のうちでございます」と、お供の者がお答え申しました。天皇は、
「無礼なやつめ。おのれが家をわしのお宮に似《に》せて作っている」とお怒《いか》りになり、
「行ってあの家を焼きはらって来い」とおっしゃって、すぐに人をおつかわしになりました。
すると大県主《おおあがたぬし》はすっかりおそれいってしまいました。
「実は、おろかな私どものことでございますので、ついなんにも存じませんで、うっかりこしらえましたものでございます」と言って、縮《ちぢ》みあがってお申しわけをしました。そして、そのおわびの印《しるし》に、一ぴきの白いぬにぬのを着せ、鈴《すず》の飾《かざ》りをつけて、それを身内《みうち》の者の一人の、腰佩《こしはき》という者に綱《つな》で引かせて、天皇に献上《けんじょう》いたしました。
それで天皇も、そのうちをお焼きはらいになることだけは許しておやりになり、そのまま若日下王《わかくさかのみこ》のおうちへお着きになりました。
天皇はお供《とも》の者をもって、
「これはただいま途中で手に入れたいぬだ。珍《めずら》しいものだから進物《しんもつ》にする」とおっしゃって、さっきの白いぬを若日下王《わかくさかのみこ》におくだしになりました。しかし王《みこ》は、
「きょう天皇は、お日さまをお背中《せなか》になすっておこしになりました。これではお日さまに対しておそれおおうございますので、きょうはお目にかかりません。そのうち、私のほうからすぐにまかり出まして、お宮へお仕え申しあげます」
こう言って、おことわりをなさいました。
天皇はお帰りのお途中、山の上にお立ちになって、若日下王《わかくさかのみこ》のことをお慕《した》いになるお歌をおよみになり、それを王《みこ》へお送りになりました。王《みこ》はそれからまもなくお宮へおあがりになりました。
二
天皇はあるとき、大和《やまと》の美和川《みわがわ》のほとりへお出ましになりました。そうすると、一人の娘《むすめ》が、その川で着物を洗っておりました。それはほんとうに美しい、かわいらしい娘でした。天皇は、
「そちはだれの子か」とおたずねになりました。
「私《わたくし》は引田郎《ひけたべ》の赤猪子《あかいのこ》と申します者でございます」と娘はお答え申しました。天皇は、
「それでは、いずれわしのお宮へ召《め》し使ってやるから待っていよ」とおっしゃって、そのままお通りすぎになりました。
赤猪子《あかいのこ》はたいそう喜んで、それなりお嫁《よめ》にも行かないで、一心にご奉公《ほうこう》を待っておりました。しかし宮中《きゅうちゅう》からは、何十年たっても、とうとうお召《め》しがありませんでした。そのうちに、もうひどいおばあさんになってしまいました。赤猪子《あかいのこ》は、
「これではいよいよお宮へご奉公にあがることはできなくなった。しかしこんなになるまで、いっしょうけんめいにおめしを待っていたことだけは、いちおう申しあげて来たい」こう思って、ある日、いろいろの鳥やお魚《さかな》や野菜ものをおみやげに持って、お宮へおうかがいいたしました。すると天皇は、
「そちはなんという老婆《ろうば》だ。どういうことでまいったのか」とおたずねになりました。赤猪子《あかいのこ》は、
「私は、いついつの年のこれこれの月に、これこれこういうおおせをこうむりましたものでございます。こんにちまでお召《め》しをお待ち申してとうとう何十年という年を過《す》ごしました。もはやこんな老婆《ろうば》になりましたので、もとよりご奉公《ほうこう》には堪《た》えられませんが、ただ私がどこまでもおおせを守《まも》っておりましたことだけを申しあげたいと存じましてわざわざおうかがいいたしました」と申しあげました。天皇《てんのう》はそれをお聞きになって、びっくりなさいました。
「私《わし》はそのことは、もうとっくに忘《わす》れてしまっていた。これはこれはすまないことをした。かわいそうに」とおっしゃって、二つのお歌をお歌いになり、それでもって、赤猪子《あかいのこ》のどこまでも正直《しょうじき》な心根《こころね》をおほめになり、ご自分のために、とうとう一生お嫁《よめ》にも行かないで過ごしたことをしみじみおあわれみになりました。赤猪子《あかいのこ》
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