近江《おうみ》を越《こ》えて来たものか。
  わしもその近江《おうみ》から来て、
  木幡《こばた》の村でおまえに会った。
  おまえの後姿《うしろすがた》は、
  盾《たて》のようにすらりとしている。
  おまえのきれいな歯並《はなみ》は、
  しいの実《み》のように白く光っている。
  顔には九邇坂《わにざか》の土を、
  そこの土は、
  上土《うわつち》は赤く、
  底土《そこつち》は赤黒いけれど、
  中土《なかつち》の、
  ちょうど色のよいのを
  眉墨《まゆずみ》にして、
  色|濃《こ》く眉《まゆ》をかいている。
  おまえはほんとうにきれいな子だ。

とこういう意味のお歌を歌っておほめになりました。
 天皇は、この美しい矢河枝媛《やかわえひめ》を、後にお妃《きさき》にお召《め》しになりました。このお妃から、宇治若郎子《うじのわかいらつこ》とおっしゃる皇子がお生まれになりました。
 天皇には、すべてで、皇子が十一人、皇女が十五人おありになりました。
 その中で、天皇は、矢河枝媛《やかわえひめ》のお生み申した若郎子皇子《わかいらつこおうじ》を、いちばんかわいくおぼしめしていらっしゃいました。
 あるとき天皇は、その若郎子皇子《わかいらつこおうじ》とはそれぞれお腹《はら》ちがいのお兄上でいらっしゃる大山守命《おおやまもりのみこと》と大雀命《おおささぎのみこと》のお二人をお召《め》しになって、
「おまえたちは、子供は兄と弟とどちらがかわいいものと思うか」とお聞きになりました。
 大山守命《おおやまもりのみこと》は、
「それはだれでも兄のほうをかわいくおもいます」と、ぞうさもなくお答えになりました。
 しかしお年下の大雀命《おおささぎのみこと》は、お父上がこんなお問いをおかけになるのは、わたしたち二人をおいて、弟の若郎子《わかいらつこ》にお位をお譲《ゆず》りになりたいというおぼしめしに相違《そうい》ないと、ちゃんと、天皇のお心持をおさとりになりました。それでそのおぼしめしに添《そ》うように、
「私は弟のほうがかわいいだろうと思います。兄のほうは、もはや成人しておりますので、何の心配もございませんが、弟となりますと、まだ子供でございますから、かわいそうでございます」とお答えになりました。
 天皇は、
「それは雀《ささぎ》の言うとおりである。わしもそう思っている」とおおせになり、なお改めて、
「ではこれから、そちら二人と若郎子《わかいらつこ》と三人のうち、大山守《おおやまもり》は海と山とのことを司《つかさど》れ、雀《ささぎ》はわしを助けて、そのほかのすべての政《まつりごと》をとり行なえよ。それから若郎子《わかいらつこ》には、後にわしのあとを継《つ》いで天皇の位につかせることにしよう」と、こうおっしゃって、ちゃんと、お三人のお役わりをお定めになりました。
 大山守命《おおやまもりのみこと》は、後に、このお言いつけにおそむきになって、若郎子皇子《わかいらつこおうじ》を殺そうとさえなさいましたが、ひとり大雀命《おおささぎのみこと》だけは、しまいまで天皇のご命令のとおりにおつくしになりました。

       二

 天皇は日向《ひゅうが》の諸県君《もろあがたぎみ》という者の子に、髪長媛《かみながひめ》という、たいそうきりょうのよい娘《むすめ》があるとお聞きになりまして、それを御殿《ごてん》へお召《め》し使いになるつもりで、はるばるとお召しのぼせになりました。
 皇子《おうじ》の大雀命《おおささぎのみこと》は、その髪長媛《かみながひめ》が船で難波《なにわ》の津《つ》へ着いたところをご覧《らん》になり、その美しいのに感心しておしまいになりました。それで武内宿禰《たけのうちのすくね》に向かって、
「こんど日向《ひゅうが》からお召しよせになったあの髪長媛《かみながひめ》を、お父上にお願いして、私《わたし》のお嫁《よめ》にもらってくれないか」とお頼《たの》みになりました。
 宿禰《すくね》はかしこまって、すぐにそのことを天皇に申しあげました。
 すると天皇は、まもなくお酒盛《さかもり》のお席へ大雀命《おおささぎのみこと》をお召しになりました。そして、美しい髪長媛《かみながひめ》にお酒をつぐかしわの葉をお持たせになって、そのまま命《みこと》におくだしになりました。
 天皇はそれといっしょに、

  わしが、子どもたちをつれて、
  のびるをつみに通り通りする、
  あの道ばたのたちばなの木は、
  上の枝々《えだえだ》は鳥に荒《あら》され、
  下の枝々は人にむしられて、
  中の枝にばかり花がさいている。
  そのひそかな花の中に、
  小さくかくれている実のような、
  しとやかなこの乙女《おとめ》なら、
  ちょうどおまえに似《に
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