した。しかし、そのうちにふと顔を上げて見ますと、自分の頭の真上には、鋭く尖《とが》った大きな刀が、一本の馬の尾の毛筋で真っ逆さに釣り下げられていたので、びっくりして青くなりました。これはディオニシアスが、おれの境遇は丁度この通りだということを見せてやろうというので、わざわざ仕組んだのでした。
ディオニシアスは、こんな乱暴な人でしたけれど、それと一しょに、一方には大層学問があり、色々の学者や詩人たちを、いつも側《そば》に集めていました。そして自分でもどんどん詩を作りました。
或ときディオニシアスは、フィロセヌスという学者が、自分の作った詩をけなしていると聞いて、大層|怒《おこ》って、すぐにつかまえて牢屋へ入れました。
そのうちにディオニシアスは、また一つ詩をつくりました。そして自分では、こんな立派な詩はちょっとだれにも作れまいと大得意になって、早速フィロセヌスを牢屋からよび出して見せつけました。フィロセヌスがその詩を読んでしまいますと、ディオニシアスは、どうだ、それでもまだ悪いというか、と言わぬばかりに、相手の顔を見下しました。
するとフィロセヌスは、何にも言わずに、くるりと獄卒の方を向いて、
「おい、もう一度牢屋へ入れてくれ。」と言いました。
ディオニシアスもこのときばかりはくすくす苦笑いをしました。そして、相手の正直なことを褒《ほ》める印《しるし》に、そのまま解放してやりました。
二
しかし、ディオニシアスについて伝えられているお話の中で、一ばん人を感動させるのは、怖《おそ》らくピシアスとデイモンとのお話でしょう。
この二人は、どちらもピサゴラスの学徒と言って、ピサゴラスという、ずっと昔にいた学者の教えを奉じている人たちでした。
ピサゴラスという人は、どんな人で、どんなことを説いたかということは、今ははっきり分っておりません。ただ、この派の学徒たちは、すべて感情を殺すということ、その中でもとりわけ怒を押えること、そして、どんな苦しいことでも、じっとがまんするということを、人間の第一の務めだと考えていました。こういう風に自分の感情や慾望を押えつけることを自制と言います。ピサゴラスの学徒は、人間はこの自制が少しでも多く出来れば出来るほど、それだけ神さまに近づくのだ、生がい完全な自制を以て突き通して来た人は、死んだ後には神さまになれる、その反対に、少しでも自分を押えつけることが出来ないで、いろいろの悪いことをしたものは、次の世には、獣や、またはそれ以下の動物に生れて来るのだと信じておりました。
それらの学徒は、お互に、いつも固く団結して、いろいろの学問を修めていました。特に数学と音楽とを一ばん大切なものとして研究しました。
その学徒の一人のピシアスという人が、シラキュースに来ておりましたが、それがいつもディオニシアスに反抗しているように睨《にら》まれて捕縛されました。ディオニシアスはいきなり死刑を言いわたしました。
ピシアスは、それでは仰《おおせ》のままに殺しておもらいしましょうと言いました。しかし、そのまえに一つお願があります、私は希臘《ギリシヤ》に土地を持っており、身うちのものもおります。それで、一度あちらへかえって、すべてのことを片づけておき、すぐにまた出て来て処刑を受けますから、どうぞしばらくの間お許しを得たいと言いました。
ディオニシアスはそれを聞いて嘲笑《あざわら》いました。そんなにして、まんまと遠い海の向うへ遁《に》げた後に、またわざわざ殺されにかえる馬鹿があるものか、そんなふざけた手でこのおれが円《まる》められると思うのかというように、からからと笑いました。
ピシアスは、
「しかしそれには、私がかえるまで、身代りになってくれるものがいるのです。私の友だちの一人がちゃんと引き受けてくれるのですが。」と言葉をついで言いました。
「ははは、それはお前がからかわれたのだよ。そんなことで、むざむざ命を捨てるお人よしがどこにいよう。」とディオニシアスは笑いました。
すると、そこへデイモンという人がすかさず出て来ました。
「どうぞ私をピシアスの代りにおとめおき下さい。もし、ピシアスがあなたを欺いて、御指定の日までにかえってまいりませんでしたら、すぐに私をお殺し下さい。」と言いました。
ディオニシアスは、デイモンのその申出を聞いて、むしろびっくりしてしまいました。そして、よし、それではピシアスの言うとおりにさせてやろうと言いました。ともかくそれは、デイモンの馬鹿さ加減を試《ため》すのに丁度おもしろいと思ったからでした。
デイモンは代って牢屋へ閉じこめられました。ディオニシアスは、獄卒に言いつけて、たえずデイモンの容子《ようす》を見張りをさせておきました。しかしデイモンは、いつまでた
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