た。
 けれどもイドリスは、王さまからさわいでいたゞけばいたゞくほど、よけいに命がちゞまるやうな気がして、寝てもさめても苦痛でたまりませんでした。
 ある日王さまは、イドリスをつれて、町の郊外へ出かけました。王さまは、そこの大浴場で一しよに湯あみをしようと言ひ出しました。しかしイドリスは、そればかりはおゆるし下さいまし、いくら何でも王さまと一つのお湯へはいるのは、もつたいないかぎりですと言つて、かたくおことわりしました。それで王さまは、仕方なく一人で浴場へはいりました。
 イドリスはその間に、家《うち》へかへつてお湯をわかさせました。お湯にはいつてゐても、イドリスはじぶんが王さまから、何でも見とほす力があるやうに思はれてゐる、その苦しさを考へつゞけ、どうかして、上手に王さまの手からはなれる工夫はないものかと思案しました。
 ふと見ると、頭一ぱいに、シャボンのあわをつけた、じぶんのすがたが、そばの鏡にうつつてゐます。そのときイドリスは、ふと、さうだ、おれは気ちがひになつたことにしよう、それがいゝ、このシャボンだらけの頭をして、すつぱだかで町の中をかけて歩けば、だれだつて、おれのことを気がちがつたと思ふにさうゐない、それで、王さまが湯あみをしてゐられるところへかけこんで、いきなり王さまのおひげでもつかんで表まで引きずり出し、もうこれから、わしをよびつけないやうにちかはせるのが一とうだ。
 イドリスはかう思ひつくなり、そのまゝはだかでとび出しました。そして、さつきの浴場へかけつけて、家来をつきとばして、王さまのはいつてゐられる浴室へをどりこみ、王さまの口ひげを引ッつかんで、はだかのまゝを、むりやりに庭へ引きずり出しました。
 と思ふとたんに、古ぼけて、こはれかけてゐたその浴場の建物が、ふいに、どゞゞん、がら/\がらとくづれおちて、中にゐたものは、あつといふ間もなく一人ものこらず死んでしまひました。イドリスは、そのとッさに、気ちがひになるよりも、もつといゝことを思ひつきました。
「ごめん下さい、王さま。ぐづ/\してゐると、お命があぶないので、私もこのとほり、着物も着ないでとんでまゐりましたのです。私は家《うち》へかへつて湯をあびてゐました。すると私の魔術の手鏡が大声をあげてよぶではありませんか。私が何の秘密でもさぐり出し、さきのことまで見ぬくのはじつはみんな、その小さな手鏡に聞くのです。鏡は、大変だ/\、早く王さまを浴場の外へお引き出しせよ、くづれる/\、屋根がくづれる、といふもんですから、一生けんめいにとんでまゐりましたわけです。」
「ほゝう、さうだつたか。おかげで、おれもあやふく命をひろつた。あゝあぶなかつたね。おまへが一分間でもおくれたら、おれはりつぱに死骸《しがい》になつてゐるところだ。」
「まつたく、私といたしましても、こんなうれしいことはございません。しかし陛下、それと一しよに、私は最早《もはや》、たゞのつまらない人間になつてしまひました。あんまりあわてゝとび出すはずみに、あの、かけがへのない魔術の鏡を下へおつことして、粉みじんにくだいてしまひました。」
 かう言つて、ざんねんがりますと、王さまも、それはとんだことをしたものだと、じぶんのことのやうにをしみなげきました。
 これでイドリスはやつと心配も苦しみもなくなりました。それからは、もう王さまから、および出しも来ず、おかみさんと二人で、れいのごほうびにいたゞいたお金で、一生らく/\とくらしました。



底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第四巻」文泉堂書店
   1975(昭和50)年9月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
   1927(昭和2)年2月
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2007年2月19日作成
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