佛者の説くところに習合せられ、新しい衣を裝ふに到ると、其處にわが國での日想觀の樣式は現れて來ねばならぬ訣である。
日想觀の内容が分化して、四天王寺專有の風と見なされるやうになつた爲、日想觀に最適切な西の海に入る日を拜むことになつたのだが、依然として、太古のまゝの野山を馳けまはる女性にとつては、唯東に昇り、西に沒する日があるばかりである。だから日想觀に合理化せられる世になれば、此記憶は自ら範圍を擴げて、男性たちの想像の世界にも、入りこんで來る。さうした處に初めて、山越し像の畫因は成立するのである。
だから、源信僧都が感得したと言ふのは、其でよい。たゞ叡山|横川《ヨガハ》において想見したとの傳説は傳説としての意味はあつても、もつと切實な畫因を、外に持つて居ると思はれる。幼い慧心院僧都が、毎日の夕燒けを見、又年に再大いに、之を瞻《ミ》た二上山の落日である。
今日も尚、高田の町から西に向つて、當麻の村へ行くとすれば、日沒の頃を擇ぶがよい。日は兩峰の間に俄に沈むが如くして、又更に浮きあがつて來るのを見るであらう。
もし韋提希夫人が行する日想觀に當る如來像を描くとすれば、やはり亦波間に見える島山の
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