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馬上の主人も、今まで其ばかり考へて居た所であつた。だが彼の心は、瞬間明るくなつて、先年三形王の御殿での宴《ウタゲ》に誦《クチズサ》んだ即興が、その時よりも、今はつきりと内容を持つて、心に浮んで來た。
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うつり行く時見る毎に、心|疼《イタ》く 昔の人し 思ほゆるかも
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目をあげると、東の方春日の杜《モリ》は、谷陰になつて、こゝからは見えぬが、御蓋《ミカサ》山・高圓《タカマド》山一帶、頂が晴れて、すばらしい春日和になつて居た。
あきらめがさせるのどけさなのだ、とすぐ氣がついた。でも、彼の心のふさぎのむし[#「ふさぎのむし」に傍点]は迹《アト》を潜めて、唯、まるで今歩いてゐるのが、大日本平城京《オホヤマトヘイセイケイ》の土ではなく、大唐《ダイトウ》長安の大道の樣な錯覺の起つて來るのが押へきれなかつた。此馬がもつと、毛竝みのよい純白の馬で、跨つて居る自身も亦、若々しい二十代の貴公子の氣がして來る。神々から引きついで來た、重苦しい家の歴史だの、夥しい數の氏人などから、すつかり截り離されて、自由な空にかけつて居る自分でゞもある
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