光りも、黒い巖石が皆吸ひとつたやうに、岩窟《イハムロ》の中に見えるものはなかつた。唯けはひ[#「けはひ」に傍点]――彼の人の探り歩くらしい空氣の微動があつた。
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思ひ出しだぞ。おれが誰だつたか、――訣つたぞ。
おれだ。此おれだ。大津の宮に仕へ、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦《シガツヒコ》。其が、おれだつたのだ。
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歡びの激情を迎へるやうに、岩窟《イハムロ》の中のすべての突角が哮《タケ》びの反響をあげた。彼の人は、立つて居た。一本の木だつた。だが、其姿が見えるほどの、はつきりした光線はなかつた。明りに照し出されるほど、まとまつた現《ウツ》し身《ミ》をも、持たぬ彼《カ》の人であつた。
唯、岩屋の中に矗立《シユクリツ》した、立ち枯れの木に過ぎなかつた。
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おれの名は、誰も傳へるものがない。おれすら忘れて居た。長く久しく、おれ自身にすら忘れられて居たのだ。可愛《イト》しいおれの名は、さうだ。語り傳へる子があつた筈だ。語り傳へさせる筈の語部《カタリベ》も、出來て居たゞらうに。――なぜか、おれの心は寂しい。空虚な感じが、しく
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