乳母《チオモ》だつた。
寺方の言ひ分に讓るなど言ふ問題は、小い事であつた。此爽やかな育ての君の判斷力と、惑ひなき詞に感じてしまつた。たゞ、涙。かうまで賢《サカ》しい魂を窺ひ得て、頬に傳ふものを拭ふことも出來なかつた。子古にも、郎女の詞を傳達した。さうして、自分のまだ曾て覺えたことのない感激を、力深くつけ添へて聞かした。
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ともあれ此上は、難波津へ。
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難波へと言つた自分の語に、氣づけられたやうに、子古は思ひ出した。今日か明日、新羅問罪の爲、筑前へ下る官使の一行があつた。難波に留つてゐる帥の殿も、次第によつては、再太宰府へ出向かれることになつてゐるかも知れぬ。手遲れしては一大事である。此足ですぐ、北へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶ふ處は馬で走らう、と決心した。
萬法藏院に、唯一つ飼つて居た馬の借用を申し入れると、此は快く聽き入れてくれた。今日の日暮れまでには、立ち還りに、難波へ行つて來る、と齒のすいた口に叫びながら、郎女の竪帷《タツバリ》に向けて、庭から匍伏した。子古の發つた後は、又の
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