こゝまでお出でだつた。伴の人も連れずに――。
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口々に問うた。男たちは、咎める口とは別に、心はめい/\、貴い女性をいたはる氣持ちになつて居た。
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山ををがみに……。
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まことに唯|一詞《ヒトコト》。當《タウ》の姫すら思ひ設けなんだ詞《コトバ》が匂ふが如く出た。
貴族の家庭の語と、凡下《ボンゲ》の家々の語とは、すつかり變つて居た。だから言ひ方も、感じ方も、其うへ、語其ものさへ、郎女の語が、そつくり寺の所化|輩《ハイ》には、通じよう筈がなかつた。
でも、其でよかつたのである。其でなくて、語の内容が、其まゝ受けとられようものなら、南家の姫は、即座に氣のふれた女、と思はれてしまつたであらう。
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それで、御館《ミタチ》はどこぞな。
みたち……。
おうちは……。
おうち……。
おやかたは、と問ふのだよ――。
をゝ。家はとや。右京藤原南家……。
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俄然として、群集の上にざはめきが起つた。四五人だつたのが、あとから後から登つて來た僧たちも加つて、二十人以上にもなつて居た。其が、口々に喋り出したものである。
ようべの嵐に、まだ殘りがあつたと見えて、日の明るく照つて居る此小|晝《ビル》に、又風が、ざはつき出した。この岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山へかけての尾根《ヲネ》尾根にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。山の此方《コナタ》にも小櫻の花が、咲き出したのである。
此時分になつて、奈良の家では誰となく、こんな事を考へはじめてゐた。此はきつと、里方の女たちのよく[#「よく」に傍点]する、春の野遊びに出られたのだ。――何時からとも知らぬ習《ナラハ》しである。春秋の、日と夜と平分《ヘイブン》する其頂上に當る日は、一日、日の影を逐うて歩く風が行はれて居た。どこまでもどこまでも、野の果て、山の末、海の渚まで、日を送つて行く女衆が多かつた。さうして、夜に入つてくた/\になつて、家路を戻る。此爲來りを何時となく、女たちの咄すのを聞いて、姫が、女の行《ギヤウ》として、この野遊びをする氣になられたのだ、と思つたのである。かう言ふ、考へに落ちつくと、ありやうもない考へだと訣つて居ても、皆の心が一時、ほうと輕くなつた。ところが、其日も晝さがりになり、段々|夕光《ユフカゲ》の、催して來る時刻が來た。昨日は、駄目になつた日の入りの景色が、今日は中日《チユウニチ》にも劣るまいと思はれる華やかさで輝いた。横佩家の人々の心は、再重くなつて居た。
八
奈良の都には、まだ時をり、石城《シキ》と謂はれた石垣を殘して居る家の、見かけられた頃である。度々の太政官符《ダイジヤウグワンプ》で、其を家の周《マハ》りに造ることが、禁ぜられて來た。今では、宮廷より外には、石城《シキ》を完全にとり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した豪族の家などは、よく/\の地方でない限りは、見つからなくなつて居る筈なのである。
其に一つは、宮廷の御在所が、御一代々々々に替つて居た千數百年の歴史の後に、飛鳥《アスカ》の都は、宮殿の位置こそ、數町の間をあちこちせられたが、おなじ山河一帶の内にあつた。其で凡、都遷しのなかつた形になつたので、後《アト》から/\地割りが出來て、相應な都城《トジヤウ》の姿は備へて行つた。其數朝の間に、舊族の屋敷は、段々、家構へが整うて來た。
葛城に、元のまゝの家を持つて居て、都と共に一代ぎりの、屋敷を構へて居た蘇我臣《ソガノオミ》なども、飛鳥の都では、次第に家作りを擴げて行つて、石城《シキ》なども高く、幾重にもとり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して、凡永久の館作りをした。其とおなじ樣な氣持ちから、どの氏でも、大なり小なり、さうした石城《シキ》づくりの屋敷を、構へるやうになつて行つた。
蘇我臣|一流《ヒトナガ》れで最榮えた島の大臣家《オトヾケ》の亡びた時分から、石城の構へは禁《ト》められ出した。
この國のはじまり、天から授けられたと言ふ、宮廷に傳はる神の御詞《ミコトバ》に背く者は、今もなかつた。が、書いた物の力は、其が、どのやうに由緒のあるものでも、其ほどの威力を感じるに到らぬ時代がまだ續いて居た。
其飛鳥の都も、高天原廣野姫尊樣《タカマノハラヒロヌヒメノミコトサマ》の思召しで、其から一里北の藤井个原に遷され、藤原の都と名を替へて、新しい唐樣《モロコシヤウ》の端正《キラヽヽ》しさを盡した宮殿が、建ち竝ぶ樣になつた。近い飛鳥から、新渡來《イマキ》の高麗馬《コマ》に跨つて、馬上で通ふ風流士《タハレヲ》もあるにはあつたが、多くはやはり、鷺栖《サギス》の阪の北、香具山の麓から西へ、新しく地割りせられた京城《ケイジヤウ》の坊々《マチ
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