かつた。其寂寞たる光りの海から、高く抽《ヌキ》でゝ見える二上の山。淡海《タンカイ》公の孫、大織冠《タイシヨククワン》には曾孫。藤氏族長《トウシゾクチヨウ》太宰帥、南家《ナンケ》の豐成、其|第一孃子《ダイイチヂヨウシ》なる姫である。屋敷から、一歩はおろか、女部屋を膝行《ヰザ》り出ることすら、たまさかにもせぬ、郎女《イラツメ》のことである。順道《ジユンタウ》ならば、今頃は既に、藤原の氏神河内の枚岡《ヒラヲカ》の御神《オンカミ》か、春日の御社《ミヤシロ》に、巫女《ミコ》の君《キミ》として仕へてゐるはずである。家に居ては、男を寄せず、耳に男の聲も聞かず、男の目を避けて、仄暗い女部屋に起き臥しゝてゐる人である。世間の事は、何一つ聞き知りも、見知りもせぬやうに、おふしたてられて來た。
寺の淨域が、奈良の内外《ウチト》にも、幾つとあつて、横佩|墻内《カキツ》と讃《タヽ》へられてゐる屋敷よりも、もつと廣大なものだ、と聞いて居た。さうでなくても、經文の上に傳へた淨土の莊嚴《シヤウゴン》をうつすその建て物の樣は、想像せぬではなかつた。だが目《マ》のあたり見る尊さは、唯息を呑むばかりであつた。之に似た驚きの經驗は、曾て一度したことがあつた。姫は今其を思ひ起して居る。簡素と、豪奢との違ひこそあれ、驚きの歡喜は、印象深く殘つてゐる。
今の 太上天皇樣が、まだ宮廷の御あるじで居させられた頃、八歳《ハツサイ》の南家の郎女《イラツメ》は、童女《ワラハメ》として、初《ハツ》の殿上《テンジヨウ》をした。穆々《ボクヽヽ》たる宮の内の明りは、ほのかな香氣を含んで、流れて居た。晝すら眞夜《マヨ》に等しい、御帳臺《ミチヤウダイ》のあたりにも、尊いみ聲は、昭々《セウヽヽ》と珠を搖る如く響いた。物わきまへもない筈の、八歳の童女が感泣した。
「南家には、惜しい子が、女になつて生れたことよ」と仰せられた、と言ふ畏れ多い風聞が、暫らく貴族たちの間に、くり返された。其後十二年、南家の娘は、二十《ハタチ》になつてゐた。幼いからの聰《サト》さにかはりはなくて、玉・水精《スヰシヤウ》の美しさが益々加つて來たとの噂が、年一年と高まつて來る。
姫は、大門の閾《シキミ》を越えながら、童女殿上《ワラハメテンジヤウ》の昔の畏《カシコ》さを、追想して居たのである。長い甃道《イシキミチ》を踏んで、中門に屆く間にも、誰一人出あふ者がなかつた。恐れを知らず育てられた大貴族の郎女は、虔《ツヽマ》しく併しのどかに、御《ミ》堂・々々を拜《ヲガ》んで、岡の東塔に來たのである。
こゝからは、北大和の平野は見えぬ。見えたところで、郎女は、奈良の家を考へ浮べることも、しなかつたであらう。まして、家人たちが、神隱しに遭うた姫を、探しあぐんで居ようなどゝは、思ひもよらなかつたのである。唯うつとりと、塔の下《モト》から近々と仰ぐ、二上山の山肌に、現《ウツ》し世《ヨ》の目からは見えぬ姿を惟《オモ》ひ觀《ミ》ようとして居るのであらう。
此時分になつて、寺では、人の動きが繁くなり出した。晨朝《ジンテウ》の勤めの間も、うと/\して居た僧たちは、爽やかな朝の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]いて、食堂《ジキダウ》へ降りて行つた。奴婢《ヌヒ》は、其々もち場持ち場の掃除を勵む爲に、ようべの雨に洗つたやうになつた、境内の沙地に出て來た。
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そこにござるのは、どなたぞな。
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岡の陰から、恐る/\頭をさし出して問うた一人の寺奴《ヤツコ》は、あるべからざる事を見た樣に、自分自身を咎めるやうな聲をかけた。女人の身として、這入ることの出來ぬ結界を犯してゐたのだつた。姫は答へよう、とはせなかつた。又答へようとしても、かう言ふ時に使ふ語には、馴れて居ぬ人であつた。
若し又、適當な語を知つて居たにしたところで、今はそんな事に、考へを紊されては、ならぬ時だつたのである。
姫は唯、山を見てゐた。依然として山の底に、ある俤を觀じ入つてゐるのである。寺奴《ヤツコ》は、二|言《コト》とは問ひかけなかつた。一晩のさすらひでやつれては居ても、服裝から見てすぐ、どうした身分の人か位の判斷は、つかぬ筈はなかつた。又暫らくして、四五人の跫音が、びた/″\と岡へ上つて來た。年のいつたのや、若い僧たちが、ばら/″\と走つて、塔のやらひの外まで來た。
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こゝまで出て御座れ。そこは、男でも這入るところではない。女人《ニヨニン》は、とつとゝ出てお行きなされ。
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姫は、やつと氣がついた。さうして、人とあらそはぬ癖をつけられた貴族の家の子は、重い足を引きながら、竹垣の傍まで來た。
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見れば、奈良のお方さうなが、どうして、そんな處にいらつしやる。
それに又、どうして、
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