る群れのやうに。
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郎女樣は、こちらに御座りますか。
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萬法藏院の婢女《メヤツコ》が、息をきらして走つて來て、何時もなら、許されて居ぬ無作法で、近々と廬の砌《ミギリ》に立つて叫んだ。
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なに――。
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皆の口が、一つであつた。
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郎女樣か、と思はれるあて人が――、み寺の門《カド》に立つて居さつせるのを見たで、知らせにまゐりました。
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今度は、乳母《オモ》一人の聲が答へた。
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なに、み寺の門に。
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婢女を先に、行道の群れは、小石を飛す嵐の中を、早足に練り出した。
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あっし あっし あっし……。
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聲は、遠くからも聞えた。大風をつき拔く樣な鋭聲《トゴエ》が、野|面《ヅラ》に傳はる。萬法藏院は、實に寂《セキ》として居た。山風は物忘れした樣に、鎭まつて居た。夕闇はそろ/\、かぶさつて來て居るのに、山裾のひらけた處を占めた寺庭は、白砂が、晝の明りに輝いてゐた。こゝからよく見える二上《フタカミ》の頂は、廣く、赤々と夕映えてゐる。
姫は、山田の道場の※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]から仰ぐ空の狹さを悲しんでゐる間に、何時かこゝまで來て居たのである。淨域を穢した物忌みにこもつてゐる身、と言ふことを忘れさせぬものが、其でも心の隅にあつたのであらう。門の閾から、伸び上るやうにして、山の際《ハ》の空を見入つて居た。
暫らくおだやんで居た嵐が、又山に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つたらしい。だが、寺は物音もない黄昏《タソガレ》だ。
男嶽《ヲノカミ》と女嶽《メノカミ》との間になだれをなした大きな曲線《タワ》が、又次第に兩方へ聳《ソヽ》つて行つてゐる、此二つの峰の間《アヒダ》の廣い空際《ソラギハ》。薄れかゝつた茜の雲が、急に輝き出して、白銀《ハクギン》の炎をあげて來る。山の間《マ》に充滿して居た夕闇は、光りに照されて、紫だつて動きはじめた。
さうして暫らくは、外に動くものゝない明るさ。山の空は、唯白々として、照り出されて居た。
肌 肩 脇 胸 豐かな姿が、山の尾上《ヲノヘ》の松原の上に現れた。併し、俤に見つゞけた其顏ばかりは、ほの暗かつた。
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今すこし著《シル》く み姿顯したまへ――。
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郎女の口よりも、皮膚をつんざいて、あげた叫びである。山腹の紫は、雲となつて靉《タナビ》き、次第々々に降《サガ》る樣に見えた。
明るいのは、山|際《ギハ》ばかりではなかつた。地上は、砂《イサゴ》の數もよまれるほどである。
しづかに しづかに雲はおりて來る。萬法藏院の香殿・講堂・塔婆樓閣・山門僧房・庫裡、悉く金に、朱に、青に、晝より著《イチジル》く見え、自《ミヅカ》ら光りを發して居た。庭の砂の上にすれ/\に、雲は搖曳して、そこにあり/\と半身を顯した尊者の姿が、手にとる樣に見えた。匂ひやかな笑みを含んだ顏が、はじめて、まともに郎女に向けられた。伏し目に半ば閉ぢられた目は、此時、姫を認めたやうに、清《スヾ》しく見ひらいた。輕くつぐんだ脣は、この女性《ニヨシヤウ》に向うて、物を告げてゞも居るやうに、ほぐれて見えた。
郎女は尊さに、目の低《タ》れて來る思ひがした。だが、此時を過してはと思ふ一心で、御《ミ》姿から、目をそらさなかつた。
あて人を讃へるものと、思ひこんだあの詞が、又心から迸り出た。
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なも 阿彌陀ほとけ。あなたふと 阿彌陀ほとけ。
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瞬間に明りが薄れて行つて、まのあたりに見える雲も、雲の上の尊者の姿も、ほのぼのと暗くなり、段々に高く、又高く上つて行く。
姫が、目送する間もない程であつた。忽、二上山の山の端《ハ》に溶け入るやうに消えて、まつくらな空ばかりの、たなびく夜になつて居た。
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あっし あっし。
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足を蹈み、前《サキ》を驅《オ》ふ聲が、耳もとまで近づいて來てゐた。

        十八

當麻の邑は、此頃、一本の草、一塊《ヒトクレ》の石すら、光りを持つほど、賑ひ充ちて居る。
當麻眞人家《タギマノマヒトケ》の氏神|當麻彦《タギマヒコ》の社へ、祭り時に外れた昨今、急に、氏[#(ノ)]上の拜禮があつた。故上總守|老《オユ》[#(ノ)]眞人以來、暫らく絶えて居たことである。
其上、まう二三日に迫つた八月《ハツキ》の朔日《ツイタチ》には、奈良の宮から、勅使が來向はれる筈になつて居た。當麻氏から出られた大夫人《ダイフジン》のお生み申された宮の御代に、あらたまることになつたからである。

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