きも得ざりき。しかも、その風のごとき運動は徐《じょ》じょにわがかたへも延長し来たれるなり。
 この見馴れざる不可解の現象ほど、われに奇異の感を懐《いだ》かしめたることはかつてなかりき。しかもわれはなお、それに対して恐怖の念を起こすにいたらざりき。われはかくの如くに記憶す。――たとえば、開かれたる窓より何心なしに表をながめたる時、目前にある小さき立ち木を遠方にある大木の林の一本と見誤まることあり。それは遠方の大木と同様の大きさに見ゆれど、しかもその量《かさ》においても、その局部においても、後者とはまったく一致せざるはずなり。要するに、大気中における遠近錯覚に過ぎざるなれど、一時は人を驚かし、人を恐れしむることあり。われらは最も見馴れたる自然の法則の、最も普通なる運用を信頼し、そのあいだになんらかの疑うべきものあるを見れば、直《ただ》ちにそれをもってわれらの安全をおびやかすか、あるいは不思議なる災厄の予報と認むるを常とす。されば、今や草むらが理由なくして動揺し、その動揺の一線が迷うことなくおもむろに進行し来たるをみれば、たとい恐怖を感ぜざるまでも、確かに不安を感ぜざるを得ざるなり。
 わが同伴者は実際に恐怖を感じたるがごとく、あわやと見る間に、彼は突然その銃を肩のあたりに押し当てて、ざわめく穀物にむかって二発を射撃したり。その弾《たま》けむりの消えやらぬうちに、われは野獣の吼《ほ》ゆるがごとき獰猛《どうもう》なる叫び声を高く聞けり。モルガンはその銃を地上に投げ捨てて、跳《おど》り上がって現場より走り退《の》きぬ。それと同時に、われはある物の衝突によって地上に激しく投げ倒されたり。煙りにさえぎられて確かに見えざりしが、柔らかく、しかも重き物体が大いなる力をもってわれに衝突したりしと覚ゆ。
 われは再び起きあがりて、わが手より取り落としたる銃を拾い上げんとする前に、モルガンが今や最期《さいご》かとも思わるる苦痛の叫びをあぐるを聞けり。さらにまた、その叫び声にまじりて、闘える犬の唸《うな》るがごとき皺枯《しわが》れたる凄《すさ》まじき声をも聞けり。異常の恐怖に襲われて、われはあわてて跳《は》ね起きつつモルガンの走り行きたる方角を打ち見やれば、ああ、二度とは見まじき怖ろしの有様なりしよ。三十ヤードとは隔てざる処《ところ》に、わが友は片膝を突いてありき。その頭《かしら》は甚だしき角度にまでのけぞりて、その長き髪はかき乱され、その全身は右へ左へ、前へうしろへ、激しく揺られつつあるなり。その右の腕は高く挙げられたれど、わが眼にはその手先はなきように見えたり。左の腕はまったく見えざりき。わが記憶によれば、この時われはその身体の一部を認めたるのみにて、他の部分はさながら暈《ぼか》されたるように見えしと言うのほかなかりき。やがてその位置の移動によりて、すべての姿は再び我が眼に入れり。
 かく言えばとて、それらはわずかに数秒時間の出来事に過ぎず。そのあいだにもモルガンはおのれよりも優《すぐ》れたる重量と力量とに圧倒されんとする、決死の力者《りきしゃ》のごとき姿勢を保ちつつありき。しかも、彼のほかには何物をも認めず、彼の姿もまた折りおりには定かならざることありき。彼の叫びと呪いの声は絶えず聞こえたれど、その声は人とも獣《けもの》とも分かぬ一種の兇暴|獰悪《ねいあく》の唸り声に圧せられんとしつつあるなり。
 われは暫《しばら》くなんの思案もなかりしが、やがてわが銃をなげ捨てて、わが友の応援に馳《は》せむかいぬ。われはただ漠然と、彼はおそらく逆上せるか、あるいは痙攣《けいれん》を発せるならんと想像せるなり。しかもわが走り着く前に、彼は倒れて動かずなりぬ。すべての物音は鎮まりぬ。しかもこれらの出来事なくとも、われを恐れしむることありき。
 われは今や再びかの不可解の運動を見たり。野生の燕麦は風なきに乱れ騒ぎて、眼にみえざる動揺の一線は俯伏《うつぶ》しに倒れている人を越えて、踏み荒らされたる現場より森のはずれへ、しずかに真っ直ぐにすすみゆくなり。それが森へと行き着くを見おくり果てて、さらにわが同伴者に眼を移せば――彼はすでに死せり。

       三

 検屍官はわが席を離れて、死人のそばに立った。彼は敷布《シーツ》のふちを把《と》って引きあげると、死人の全身はあらわれた。死体はすべて赤裸で、蝋燭のひかりのもとに粘土色に黄いろく見えた。しかも明らかに打撲傷による出血と認められる青黒い大きい汚点《しみ》が幾カ所も残っていた。胸とその周囲は棍棒で殴打されたように見られた。ほかに怖ろしい引っ掻き疵《きず》もあって、糸のごとく、または切れ屑のごとくに裂かれていた。
 検屍官は更にテーブルのはしへ廻って、死体の頤《あご》から頭の上にかかっている絹のハンカチーフを取りはず
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