盾凾≠戟@Society of Arts」は斜体], June, 1939.) p. 745.
我國の中等學校の英語教授に於いて、その正確、完全を期することは勿論最も重要なことである。併し、餘りに Correct English の標語に囚はれることは、却つて實際的の進歩を阻む結果になりはしないだらうか。クラップ(G.P. Krapp)教授の言つてゐるやうに、今少しく達意(intelligibility)といふことを許容すべきであると思ふ。餘りに道具を尊重し過ぎて本來の目的を忘れるのはあり勝ちなことである。支那人が餘り漢字を大事に育てあげた爲に支那の文化が伸展しなかつたと言ふ人もある。新しい教授方式に對して徒に其の短所のみを論ずることをせず、その組織の長所を認識して、これを教授に應用して見るのが進歩的教育者の爲すべきことである。革新は常に原理を有する單純化より始まる。生徒を過勞より救い出さねばならない。單純性の支配する所に情熱が燃え力が生まれ、溢れてくるのである。
[#この後、改ページに続いて「VI. 文例」の章があるが、著作権の状態が不明なため、省略する。]
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