一万一千ルーブルで買うと言ってるのだよ、な、いいかえ? 坊さんの手紙では、その男がもう一週間しか逗留《とうりゅう》しないということだから、おまえひとつ出かけて、その男と談判してみてくれないか……」
「それじゃあ、その坊さんに手紙を出したらいいじゃありませんか、その人が談判をしてくれますよ」
「とてもあの人にゃできない相談だよ、あの坊さんには見る眼というものがないからなあ、人は好いもので、あの人になら今すぐ二万ルーブルの金を、受け取りなしに平気で頂けてみせるよ、しかし眼力というものが少しもないんだ、人間ならまだしも、鴉《からす》にだってだまされそうなお人好しだよ、それでいて学者だから驚くて。ところが、そのゴルスツキンというのは、見かけは紺の袖無しなんか着こんで、まるでどん百姓のようだが、肚の中ときたら、まるっきり悪党なんだ、これがお互いの不仕合わせというのさ、つまり、恐ろしい嘘つきなんだ、これが問題なのさ、どうかすると、何のためにあんな嘘をつくのかと、不思議になるような嘘をつくんだ。一昨年なんかも、女房が死んだから、今二度目のをもらっているなどと言いおったが、その実そんなことは根も葉もないでたらめなんだよ、女房が死ぬどころか、今でもぴんぴんしていて、三日に一ぺんはきまって亭主野郎をなぐっているんだ。そんな風だから、今度も一万一千ルーブルで買うというのも、本当か嘘か、それを突き止めないではと思うのさ」
「そんなんじゃあ、僕なんかなんの役にも立ちませんよ、僕には眼力なんかありませんから」
「いや、待て、そうでない、おまえでも役に立つぞ、今わしがあの男の、つまりゴルスツキンの癖をすっかり教えてやるわい、わしはもうだいぶ前からあの男と取り引きをしておるからな。いいか、あの男はまず髯《ひげ》を見なくちゃならんのだ、あいつの髯は赤くてよごれてちょろちょろしとるが、その髯を震わしながら腹を立てて物を言うときは、つまり何も言うことはない、あいつは本当のことをしゃべっているんだ、まじめに取り引きをする気があるんだ。ところが、もし左の手で髯をこうなでながら、笑っているときは、つまり瞞着《まんちゃく》しようと思って悪企みをしてやがるのだ、あの男の眼はけっして見るのじゃないぞ、あいつの眼では何もわかりゃせんぞ、悪党だからな――つまり髯さえ見ていればいいのさ、わしがあの男に当てた手紙をおまえにことずけるから、そいつを見せてくれ、男はゴルスツキンだが、本当はゴルスツキンじゃなくてリャガウイだ、しかし、おまえあいつに向かってリャガウイなんて言っちゃいかんぞ、怒るからな、もしあいつと談判をして、うまくいきそうだったらすぐ手紙をよこしてくれ、ただ『嘘ではない』と書きさえすりゃいいんだよ。初め一万一千ルーブルで頑張ってみたうえで、千ルーブルくらいは負けてやってもいい。しかし、それよりうえ負けちゃいかんぞ、まあ、考えてもみろ、八千ルーブルと一万一千ルーブル――三千ルーブルの開きじゃないか。この三千ルーブルは全く目つけものなんだよ。それに、またといって、なかなか買い手はつきゃせんし、今さしずめ金には困り抜いてるんだからなあ、もしまじめな話だという知らせさえあれば、その時はわしが飛んで行って片をつけるわい、なんとかして暇を見つけるさ。しかし、まだ今のところでは、坊さんの思い違いかもしれんからなあ、わしがわざわざ出かけてもしようがないよ」
「ちょっと、そんな暇がないんですよ、堪忍してください」
「まあさ、親爺の言うことも聞いてくれ、恩に着るぞ! おまえたちはどいつもこいつも不人情なやつばかりだよ、本当に! 一日や二日どうだというんだい? いったいおまえは今どこへ行こうってんだ、ヴェニスへでも行くのかい? なあに、おまえのヴェニスは二日のあいだになくなりゃあせんよ。アリョーシャをやってもいいのだが、こんなことにかけては、アリョーシャじゃしようがないて、おまえだけだよ、賢い人間は、それがわしにわからんと思うのかい? 森の売り買いこそしまいが、眼力をそなえておるからなあ、ただあの男が本当のことを言っとるかどうかさえ、見抜きゃいいんだ。今も言ったように髯をみるんだ。髯が震えてたら本当なんだから」
「お父さんは自分からあのいまいましいチェルマーシニャへ、僕を追い立てるんですね? え?」と、イワン・フョードロヴィッチは無気味な薄笑いを浮かべながらどなった。
フョードル・パーヴロヴィッチはその無気味なものだけには気づかないで、あるいは気づくことを欲しないで、ただ薄笑いのほうだけを取りあげたのである。
「じゃあ、行ってくれるんだな、行ってくれるんだな! すぐに今一筆書いてやるからな」
「わかりませんよ、行くかどうか、まあ途中で決めましょうよ」
「途中でとはなんだ、今決めるがいい、な、いい子だから決めてくれ! 話がついたら一筆書いて、坊さんに渡してくれ、そうすれば、やっこさんがすぐおまえの書きつけをわしに届けてくれるからなあ、それから後はもうおまえの邪魔はせんから、ヴェニスへでもどこへでも行くがよい、坊さんが自分の馬をつけて、おまえをワロヴィヤの宿場まで送ってくれるよ……」
老人はただもう有頂天になって、手紙を書いたり、馬の用意に使いを出したりして、前菜《オードブル》とコニャクを出させた。彼は悦《えつ》に入ると、きまって口数が多くなるのだが、このときはなんとなく控え目にしているようであった。ドミトリイ・フョードロヴィッチのことなどは、おくびにも出さなかった。しかし別れを惜しむといった様子はさらに見えなかった。むしろなんと言っていいのかわからないようにさえ見受けられた。イワン・フョードロヴィッチもすぐそれに気がついた。『だが、親爺もいいかげんおれには飽きたろうな』と彼は肚の中で思った。玄関までわが子を送り出すとはじめて、フョードル・パーヴロヴィッチも少し騒ぎ出して、接吻するつもりでそばへ近寄った。しかしイワン・フョードロヴィッチは明らかに接吻を避けるつもりで、とっさに、握手のために手を差し出した。老人もたちまちそれと悟って、急に身を退いた。
「じゃ、御機嫌よう、御機嫌よう!」と彼は玄関口からくり返した。「いつかまたやって来るだろうな? 本当に来てくれよ、わしはいつでも歓迎するよ、じゃ、達者で行くがいい!」
イワン・フョードロヴィッチは旅行馬車の中へ乗りこんだ。
「あばよ、イワンや、あんまり悪うは言わんでくれよ!」父は最後にこう叫んだ。
家内の者は皆、スメルジャコフも、マルファもグリゴイリも見送りに出た。イワン・フョードロヴィッチはめいめいに十ルーブルずつやった。彼がすっかり馬車の中に落ち着いた時、スメルジャコフが膝かけの絨毯《じゅうたん》をなおしに駆け寄った。
「なあ、おい……チェルマーシニャへ行くんだよ……」と、いかにも唐突にイワン・フョードロヴィッチはこう口をすべらした。ちょうど昨日と同じように、ひとりでにことばが飛び出してしまったのである。おまけに神経的な微笑までついて出た。彼はその後長いあいだこのことを覚えていた。
「してみると、賢い人とはちょっと話してもおもしろいというのは本当のことでございますね」じっとしみ入るようにイワン・フョードロヴィッチをみつめながら、スメルジャコフがしっかりした調子で答えた。
馬車がごとんと一つ揺れると、走り出した。旅人の心は朦朧《もうろう》としていたけれど、彼はあたりの野らや、丘や、木立ちや、晴れわたった空を高く飛び過ぎる雁《かり》の群れなどを、むさぼるように見入るのであった。と、急に彼は心がさわやかになった。で、御者に話しかけてみると、その百姓の答えがひどくおもしろいように思われたが、一、二分もたってから考えてみると、それはただ耳もとを通り過ぎただけで、実際のところ、彼は百姓の答えを少しも聞いてはいなかったのである。彼は口をつぐんでしまったが、それでいて非常に好い気持であった。空気は清く澄み、しっとりとしてすがすがしく空は美しく晴れわたっていた。ふとアリョーシャとカテリーナ・イワーノヴナの姿が、彼の頭をかすめたが、彼はただ静かにほほえんだだけで、静かにそのなつかしい幻影を吹き消してしまった。『まだまだあの連中の時代だろうさ』と彼は考えた。駅はただ馬を換えるだけでいちはやく通り過ぎて、ひたすらワロヴィヤをさして急いだ。『なぜ賢い人はちょっと話してもおもしろいんだ? あいつはなんのつもりであんなことを言いおったのだろう?』ふとこんなことを考えた時、彼は息の止まるような思いがした。『しかもおれはなんのために、チェルマーシニャへ行くんだなんて、わざわざやつに報告したんだろう?』やがてワロヴィヤの宿へ着いた。イワン・フョードロヴィッチは馬車から降りると、たちまち御者の群れに包囲された。で、十二|露里《エルスター》の田舎道《いなかみち》を私設の駅逓馬車に乗って、チェルマーシニャへ向けて立つことに決めた。彼は馬をつけるように命じた。彼は駅舎へはいったが、ちょっとあたりを見回して駅長の細君の顔を見ると、急に引っ返して玄関へ出た。
「チェルマーシニャ行きは取りやめだ、おい、七時の汽車には間に合うか?」
「間に合いますよ、馬をつけましょうかな?」
「大至急でつけてくれ、ところで、おまえたちのうちで誰か、明日町へ行くものはないかね?」
「なんで行かんことがあるもんですか、このミートリイが行きますだよ」
「じゃ、ミートリイ、おまえに一つ頼みがあるんだがなあ、おまえおれの親父のフョードル・パーヴロヴィッチ・カラマゾフの家へ寄って、おれがチェルマーシニャへ寄らなかったことをそう言ってくれないか、行ってくれるだろうかね?」
「なんの行かねえことがござりましょう、お寄りいたしますだよ、フョードル・パーヴロヴィッチ様なら、ずっと以前から存じ上げておりますだで」
「じゃ、これが駄賃《だちん》だ、たぶん親爺はよこしゃしないだろうからなあ……」とイワン・フョードロヴィッチは快活に笑いだした。
「へえ、全くくださる気づけえはござりましねえとも」とミートリイも笑いだした。「どうも、旦那、ありがとうございます、ちゃんとお寄り申しますよ」
午後の七時にイワン・フョードロヴィッチは汽車に乗ってモスクワへ向かった。『これまでのことは何もかも消えてなくなれだ、もちろんこれまでの世界も永久に葬り去って、音もさたも聞こえなくしなければならぬ。新しい世界へ行くんだ、新しい土地へ行くんだ、けっして後ろなんかふり返ることじゃない!』
歓喜の代わりに彼の魂は、今までかつて経験したことのない闇に閉ざされ、心は深い悲しみにうずき始めた。彼は夜は夜っぴて、とつおいつ物思いにふけっていたが、列車は遠慮なく走って行った。ようやく夜明けごろ汽車がモスクワの市街へかかったとき、彼は突然われに返った。『おれは悪党だ!』と彼は肚の中でささやいた。
一方フョードル・パーヴロヴィッチは、わが子を送り出してしまうと、非常な満足を感じた。まる二時間ものあいだ彼はみずからを仕合わせ者のように感じて、ちびりちびりとコニャクを傾けたほどである。ところが不意に、すべての家人にとってこのうえもなくいまいましく、このうえもなく不愉快な事件が家内にもちあがって、たちまちフョードル・パーヴロヴィッチの心を混乱に陥れてしまった。スメルジャコフが何かの用で穴蔵へ行って、いちばん上の段から下まで転げ落ちたのである。それでもマルファ・イグナーチエヴナが庭に居合わせて、さっそくその物音を聞きつけたのはまだしも幸いであった。彼女は落ちるところこそ見なかったが、その代わり叫び声を聞きつけたのである。それは一種特別な奇妙な叫び声ではあったが、もうずっと前から聞き覚えのある癲癇《てんかん》持ちが発作を起こして卒倒する時の叫び声であった。彼は階段をおりる途中で発作を起こしたのだろうか? それならば、もちろんそのまま、覚えなしに下まで転げ落ちるのが当然である。それとも反対に、墜落と震盪《しんとう》のために、生来の癲癇持ちであるスメルジャコフにそ
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