ユを否定するようにはできていないのだ。いわんや、そのような生死に関する恐ろしい瞬間に、――最も恐ろしい、根本的な、苦しい精神的疑問の湧き起こった瞬間に、自由な心の決定にのみ頼って行くようにはできていないのだ。おまえは自分の言行が書物に記録されて、時の窮み、地の果てまで伝えられることを知っていたので、すべての人間も自分の例にならって、奇跡を必要としないで神と共に暮らすだろう、そんなことを当てにしていたのだ。けれども、人間は奇跡を否定すると同時に、ただちに神をも否定する。なぜならば、人間は神よりもむしろ奇跡を求めているのだから、――この理《ことわり》をおまえは知らなかったのだ。人間というものは奇跡なくして生きることができないから、自分で勝手に新しい奇跡を作り出して、果ては祈祷師《きとうし》の奇跡や、巫女《みこ》の妖術《ようじゅつ》まで信ずるようになる。そして相手が百倍もひどい悪党で、耶教徒で、不信心者であっても意としないのだ。おまえは多くの者が、※[#始め二重括弧、1−2−54]十字架からおりてみろ、そうしたらおまえが神であることを信じてやる※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、ひやかし半分にからかった時、おまえは十字架からおりて来なかった。つまり、またしても人間を奇跡の奴隷にすることを潔しとせず、自由な信仰を渇望したから、おりなかったのだ。おまえは自由な愛を渇望したが、恐ろしい偉力によって、凡人の心に奴隷的な歓喜を呼び起こしたくなかったのだ。しかしおまえは人間をあまりに高く見積りすぎたのだ。それは天性彼らは暴徒にできあがっていても、やはり奴隷に違いないからだ。まあよく観察して判断するがよい。もう十五世紀も過ぎたのだから、よく人間を観察するがよい。あんなやつらをおまえは自分と同じ高さまで引き上げたのだ。わしは誓って言うが、人間はおまえの考えたより、はるかに弱くて卑劣なものなのだ! いったいおまえのしたと同じことが人間にできると思うのか? あんなに人間を尊敬したために、かえっておまえの行為は彼らに対して同情のないものになってしまったのだ。それはおまえがあまりにも多くのものを彼らに要求したからである。これが人間を自分の身より以上に、愛した、おまえのなすべきことといえるだろうか? もしもおまえがあれほど彼らを尊敬さえしなかったら、あれほど多くのものを要求もしなかったろう。そしてこのほうがはるかに愛に近かったに違いない。つまり人間の負担も軽くて済んだわけだ。人間というものは弱くて卑しいものだ。今彼らはいたるところで、われわれの教権に反抗して、それを誇りとしているがそんなことはなんでもない。それは赤ん坊か小学生の自慢だ。それは教室で騒動を起こして、教師を追い出すちっぽけな子供なのだ。しかし今にそんな子供らしい喜びは終わりを告げて、それに対して彼らは高い支払いをしなければならない。彼らは寺院を破壊して地上に血を流すことだろう。しかし、結局はこの愚かな子供たちも、自分らは暴徒とはいっても、最後まで反抗を持続することのできない、いくじない暴徒にすぎないことを悟るだろう。やがては、愚かな涙を流しながら、自分たちを暴徒として創った者は、疑いもなく自分たちを冷笑するためだと自覚するだろう。彼らがこんなことを言いだすのは絶望に陥った時、そのことばは神を冒涜《ぼうとく》するものとなり、それによって彼らはいっそう不幸に陥るだろう。それは、人間の本性がとうてい、冒涜を耐え忍ぶことのできないもので、結局、自分で自分にその復讐《ふくしゅう》をするに決まっているからだ。かかるがゆえに、不安と惑乱と不幸と――これがおまえが彼らの自由のためにあれだけの苦しみを忍んだ後で彼らに与えられた、今の人間の運命なのだ! おまえの偉大なる予言者はその幻想と譬喩《ひゆ》の中で、最初の復活に参与したすべての人を見たが、その数はあらゆる種族を通じて一万二千人ずつあったといっておる。しかし、それほど多くの者がいたとしても、それは人間ではなくて神であったといってもいいくらいだ。彼らはおまえの十字架を耐え忍び、荒れ果てた不毛の広野の幾十年を、蝗《いなご》と草の根によって露命をつないできたのだから、もちろん、自由の子、自由な愛の子、おまえの名のために自由と偉大なる犠牲となった子として、大威張りでこれらの人々を指さすことができるだろう。しかし、考えてもみるがいい。それはわずか数千人の、しかも神ともいうべき人間だけである。あとの人間はどうなるのだ? そうした偉大な人々の耐え忍んだことを、他の弱い人間が同じように耐え忍ぶことができなかったからとて、彼らになんの罪があろう? そのような恐ろしい賜物を、受け入れることができなかったとて、弱い魂を責めるわけにはいくまい。それともおまえは、ただ選ばれたる者のために、選ばれたる者のもとへ来たのにすぎなかったのか? 仮りにそうだとすれば、それこそ神秘で、もはや、われわれにはわからないことだ。しかし本当に神秘だとすれば、われわれは神秘を伝道して、彼らに向かって、いちばん肝要なものは良心の自由なる判断でもなければ、愛でもなく、ただ一つの神秘あるのみだ、すべての人間は自分の良心にそむいてまでも、この神秘に盲従しなければならないと教える権利を持っているわけだ。実際われわれはそのとおりにしてきた。われわれは、おまえの事業を訂正して、それを奇跡と神秘と教権の上にすえつけたのだ。すると民衆は、再び自分たちを羊の群れのように導いてくれる者ができ、それほど彼らに苦痛をもたらしたあの恐ろしい贈り物を、ついに取りのけてもらえる時が来たのを喜んだのだ。われわれがこんな風に教えたのは間違っているかどうか、ひとつ聞かせてもらいたい。われわれが優しく人間の無力を察して、情をもって彼らの重荷を減らしてやり、弱い彼らの本性を、たといそれが悪いことであっても大目に見て許してやったのが、はたして人類を愛したことにならぬのだろうか? いったいおまえは、今ごろになってなんのためにわれわれの邪魔をしにやって来たのだ? どうしておまえはそのやさしい眼でじっと見抜くように、黙ってわしを見つめておるのだ? 怒るのなら勝手に怒るがよい、わしはおまえの愛なんか欲しくはない、わしのほうでもおまえを愛してはいないのだから。それにわしは、何もおまえに隠しだてをする必要もない。それともわしが今、誰と話をしているか、知らないとでも思うのか? わしが今言おうと思っていることは、何もかもおまえにわかっているはずだ。それはおまえの目つきでちゃんと読める。しかし、わしはおまえにわれわれの秘密を隠そうとは思わぬ。ことによると、おまえはぜひわしの口からそれが聞きたいのかもしれぬ。それなら、聞かせてあげよう。われわれの仕事仲間はおまえでなくてやつ(悪魔)なのだ。これがわれわれの秘密だ! われわれはすでにずっと前から、もう八世紀のあいだもおまえを捨てて、やつといっしょになっているのだ。ちょうど八世紀以前、われわれは彼の手からおまえが憤然としてしりぞけたところのものを取ったのだ。それは地上の王国を示しながら、やつがおまえにすすめた最後の賜物だったのだ。われわれは彼の手からローマとシーザーの剣を取って、われわれこそ地上の唯一の王者だと宣言したのだ。もっとも、いまだこの事業を十分に完成することはできなかったが、それはわれわれの罪ではない。この事業は今日に至るまで、ほんの初期の状態にあるけれど、とにかく緒についてはいるのだ。その完成はまだまだ長く待たねばならぬし、まだまだこの地球も多くの苦しみをなめなければならないが、しかし結局、その目的を貫徹してわれわれは皇帝となり、やがては人類の世界の世界的幸福を企てることができるのだ。ところが、おまえはまだあの時にシーザーの剣を取ることができたのだ。どうしておまえはこの最後の贈り物をしりぞけたのだ? おまえがこの偉大なる精霊の第三の勧告を受け入れていたなら、人類が地上で捜し求めているいっさいのものを満たすことができたはずだ。言い換えれば、崇《あが》むべき人と良心を託すべき人と、すべての人が世界的に一致して、蟻塚《ありづか》のように結合する方法である。なぜというに、世界的結合の要求は、人間の第三にしてかつ最後の苦悩だからである。全体としての人類は常に世界的に結合しようと努力している。偉大な歴史を持った偉大なる国民が多くあったにはあったけれど、これらの国民は高い地歩を占めれば占めるほど、いっそう不幸になってゆくのだった。というのは人にすぐれて強い者ほど、人類の世界的結合の要求をより激しく感じるからである。チムールやジンギスカンというような偉大な征服者は、さながら旋風のように地上を席捲《せっけん》して、宇宙を併合しようと努力した。そして、これらの人々も無意識にではあるが、やはり、人類の世界的結合の要求を表現したのだ。全世界とシーザーの紫色の袍《ほう》をとってこそ、はじめて、世界的王国を建設して、宇宙的平和を設定することができるのだ。なぜというのに、人類の良心を支配し、かつ、人類のパンをその手に把握している者でなくしては、人類を支配することができないからだ。われわれはもちろん、おまえを捨ててやつの後について行った。おお、人類の自由な知恵と、科学と、人肉啖食《じんにくたんしょく》の放肆《ほうし》きわまりなき時代が、まだこのうえに幾世紀も続くだろう。まさしく人肉啖食だ。なぜなら、彼らは、われわれの力をかりずして、バビロンの塔を建て始めたのだから、彼らはついに人肉啖食で終わるのは当然なのだ。しかし、最後には、この獣が、われわれのもとへはい寄って、われわれの足をなめまわしながら、血の涙を注ぐことだろう。そこで、われわれはその獣にまたがって杯を挙げる。そして、その杯には※[#始め二重括弧、1−2−54]神秘※[#終わり二重括弧、1−2−55]と書かれているだろう。しかし、その時になって、はじめて平和と幸福の王国が人類を訪れるのだ。おまえは自分の選ばれた者ども以外にはないのだ。ところが、われわれは、すべての者をいこわせることができる。まだまだそれくらいのことではない、これらの選ばれた者どもや、選ばれたる者になり得る強者の多くは、もはやおまえの出現を待ちくたびれて、自分の精神力や情熱をまるで見当違いの畑へ移してしまっている。まだこれからも移してゆくだろう。そしてついには、おまえにそむいて自由の反旗を翻すに違いない。しかし、おまえ自身もこの反旗を翻したではないか。ところが、われわれのほうでは万人が幸福になって、もはや反逆を企てる者も、互いに殺傷し合う者もなくなるのだ。これに反して、おまえの自由の世界では、それが随所に行なわれている。おお、われわれは、彼らがわれわれのために自分の自由を捨てて、われわれに服従したとき、はじめて彼らは幸福になれるのだとよく皆の者に言い聞かしてやろう。ところで、どうだろう、われわれの言うことは正しいだろうか、正しくないだろうか? いや彼ら自身でわれわれの言うことが正しいことを悟るに違いない。それは、おまえの自由のおかげで、どれほど恐ろしい奴隷状態と混乱に落とされていたかを思い出しさえすれば十分だからな。自由だとか、自由な知恵だとか、科学だとかは、彼らをものすごい渓谷に連れこんで、恐ろしい奇跡や、解きがたい神秘の前に立たせるため、彼らのうち頑強《がんきょう》で獰猛《どうもう》な者は自殺してしまうし、頑固であっても弱い者は互いに滅ぼし合うだろう、その他のいくじのない不仕合わせな者たちは、われわれの足もとへはい寄って、こう叫ぶのだ、※[#始め二重括弧、1−2−54]あなたがたは正しゅうございました。あなたがたのみがキリストの神秘を持っていらっしゃいます。でありまするから、わたくどもはあなたがたのところへ帰ります。どうか、わたくしどもを自分自身から救ってくださいまし※[#終わり二重括弧、1−2−55]そこで、われわれは彼ら自身の得たパンをその手から取り上げると、石をパンに変えるというような奇跡など
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