A猟犬を残らず放したのだ。そして狩り立てたのだ。犬どもはたちまちに、母親の眼の前で、子供をずたずたに引き裂いてしまったんだ!……その将軍はなんでも禁治産か何かになったらしい。そこで……どうだろう? この将軍は銃殺にでも処したものかな? 道徳的感情を満足させるためには、銃殺にでも処すべきではないかえ? 言って御覧よ、アリョーシャ」
「銃殺に処すべきです!」青白いゆがんだようなほほえみを浮かべて、兄を見上げながら、アリョーシャは小声で言った。
「大出来だ!」とイワンはなんだか有頂天になってどなった、「おまえがそういう以上はな……いや、どうもたいへんな隠者があったもんだ! そうらね、おまえの胸のなかにだって、そんな小悪魔が潜んでいるじゃないか、え、アリョーシカ・カラマゾフ!」
「僕は途方もないことを言いました、しかし……」
「それそれ、その『しかし』だよ……」とイワンは叫んだ。「ねえ、新発意《しんぼち》先生、この地上においてはその途方もないことが必要以上に必要なんだよ。世界はその途方もないことを足場にして立っているんだから、それがなかったら世の中には何一つ起こりっこないんだよ。われわれは知っているだけのことしか知らないんだ!」
「兄さんは何を知っているのです!」
「僕にはなんにもわからないのだ」とうわごとでも言っているように、イワンは語をついだ、「それに今となっては、何一つ理解しようとも思わないよ。僕はただ事実というものにとどまるつもりだ。僕はもうずっと前から理解などすまいと決心したのだ。何か理解しようと思うと、すぐに事実を曲げたくなるから、それで僕は事実の上にとどまろうと決心したわけだ」
「なんだって、兄さんは僕を試すのです?」とアリョーシャは緊張した調子で悲しそうに叫んだ、「いいかげんにして言ってくれませんか?」
「もちろん、言うとも、言おうと思えばこそ、ここまで話を運んできたんだ。おまえは僕にとって大切な人間だから、僕はおまえを見のがしたくないのだ。あのゾシマ長老なんかに譲りはしないよ」
 イワンはちょっと口をつぐんだが、その顔は急にひどく沈んできた。
「さあ、聞いてくれ、僕は鮮明を期するために、子供のことばかり例にとったんだ。この地球を表面から核心まで浸している一般人類の涙については、もう何も言わないことにする。僕はわざと論題をせばめたのだ。僕は南京虫《ナンキンむし》のようなやつだから、なんのためにすべてがこんな風になっているのか、さっぱりわけがわからずに、深い屈辱を感ずるのだ。つまり、人間自身が悪いのだよ。もともと彼らには楽園が与えられていたのに、自分たちがみすみす不幸に陥ることを知りながら、自由を望んで天国から火を盗んだ。だから、何も哀れむことはないわけだ。僕の貧弱な、地上的な、ユウクリッド式の知恵をもってしては、ここにはただ苦痛があるのみで、罪人はなく、いっさいのことは、直接に、簡単に、事件から事件を生みながら、絶えず流動して平均を保っていく――ということだけぐらいしかわからないのだ。しかし、これはユウクリッド式の野蛮な考えだ。僕にもこれがわかっているから、そんな考え方で生きていくのは不承知なんだ! いったい、罪人がなくなって、すべてが直接に簡単に、事件から事件を生んでいく、という事実が僕にとって何になるんだ? またこの事実を知ってるからって、いったいそれが何になる?――僕には応報が必要なのだ。さもなくば僕は自滅してしまう。しかも、その応報もいつか無限の中のどこかで与えられるというのではいやだ。ちゃんと、この地上で、僕の眼の前で行なわれなくてはいやだ。僕は自分で見たいのだ。もしその時分に死んでいたら、よみがえらしてもらわなくてはならない。なぜって、僕のいない時にそれが現われたんではあんまり癪《しゃく》にさわるじゃないか。実際僕が苦しんだのは、何も自分自身の体や、自分の悪行や、自分の苦行を肥やしにして、どこの馬の骨かわからないやつの未来の調和《ハーモニイ》を培《つちか》ってやるためじゃないんだからね。牡鹿《おじか》が獅子《しし》のそばにねているところや、殺されたものがむくむくと起き上がって自分を殺したものを抱擁《ほうよう》するところを、ちゃんと自分の眼で見届けたいのだ。つまり、万人がすべてのことがらを一斉に知る時に、僕もその場に居合わせたいのだ。地上におけるすべての宗教は、この希望の上に打ち建てられているのだ。しかし僕は信仰しているのだ。ところが、また例の子供だ、いったいわれわれはそんな場合、子供をどう始末したらいいのだろう? この問題が僕には解決できないのだ。何度でもくり返して言うが、問題は山ほどあるけれど、僕は子供だけを例にとった。というのは、僕の言わなければならないことが実に明瞭にその中に現われているからだ。いいかえ、すべての人間が苦しまなければならないのは、苦痛をもって永遠の調和をあがなうためにしても、何のために、子供がそこへ引き合いに出されるのだ、お願いだから聞かしてくれないか? 何のために子供までが苦しまなけりゃならないのか、どういうわけで子供までが苦痛をもって調和をあがなわなくてはならないのか、とんとわけがわからないんだ。どういうわけで、子供まで材料に入れられて、どこの馬の骨かわからないやつのために、未来の調和の肥やしにならなければならないんだ? 人間同士のあいだの罪悪の連帯関係は僕にもわかる。応報の連帯関係はわかる。しかし、子供とのあいだに連帯関係があるはずはない。そしてもし、子供が父のあらゆる悪行に対して、父と連帯関係があるというのが真理ならば、その真理はまさしくあの世に属するもので、僕なんかにはとてもわからない。また剽軽《ひょうきん》な連中は、子供もやがて大きくなれば、どうせいろんな悪いことをするだろうなどと言うかもしれないが、しかも、その子供はまだ大きくなってはいないんだ、まだ九つやそこいらのものを、犬で狩り立てたんじゃないか。おお、アリョーシャ、僕はけっして神を誹謗《ひぼう》するわけではないよ! もしも、天上天下のものがことごとく一つの賛美の声となって、生きとし生けるものと、かつて生ありしものとが声を合わせて、『主よ、なんじのことばは正しかりき。なんとなれば、なんじの道の開けたればなり!』と叫んだとき、全字宙がどんなに震撼《しんかん》するかということも、僕にはよくわかる。また母親が自分の息子を犬に引き裂かした暴君と抱き合って、三人の者が涙ながらに声をそろえて、『主よ、なんじのことばは正しかりき!』と叫ぶ時には、それこそもちろん、認識の極致が到達され、いっさいのことが明らかになるのだ。ところが、またここへコンマがはいるよ。僕はそれを容認することができないのだ。で、僕はこの地上に生きているあいだに、自分自身で早急に方法を講ずる。ねえ、アリョーシャ、ことによったら、僕はそれまで生き長らえるか、あるいはそれを見るためによみがえってくるかして、実際に自分の眼で、わが子の仇敵と抱き合っている母親の姿を見ながら、一同と共に、『主よ、なんじのことばは正しかりき!』と叫ぶことができるかもしれない。が、僕はその時にもそれを叫びたくはないのだ。まだ時日のあるあいだに僕は急いで自分自身を防衛する。したがって、より高き調和などは平に御辞退申し上げるよ。そんな調和は、あの臭い牢屋の中で小さな挙を固めて、われとわが胸をたたきながら、あがなわれることのない涙を流して、『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の一滴の涙にすら値しないからだ! なぜ値しないかといえば、それはこの涙があがなわれることなしに打ちすてられているからだ。この涙は必ずあがなわれなくてはならない、さもなければ調和などというものはあり得ない。ただ、何によって、何をもってあがなおうというのだ? いったいそれは可能なことであろうか? 復讐《ふくしゅう》によってあがなわれるというのか? でも、僕には復讐なんか用はない、暴虐者のための地獄など、何になるんだ。すでに罪なき者が苦しめられてしまった暁に、地獄なんかが何の助けになるんだ! 第一、地獄が存在していてどんな調和があるんだ。僕は許したいのだ、抱擁したいのだ、人間がこれ以上苦しむことを欲しないのだ。もしも子供の苦悶が真理のあがないに必要なだけの苦悶の定量を満たすために必要だというなら、僕は前もってきっぱり断言しておく――いっさいの真理もそれだけの代償に値しないと。それぐらいなら、母親がわが子を犬に引き裂かした暴君と、抱擁などしてくれなくってもいいんだ! 母親だって、暴君を許す権利はないのだ! もしも、たって望むなら、自分だけの分を許すがいい、自分の、母親としての無量の苦痛だけを許してやるがいい。しかるに八つ裂きにされたわが子の苦痛は、けっして許す権利を持っていないのだ。たとい、子供自身が許すといっても、その暴君を許すわけにはいかないのだ! もしもそうならば――もしも誰もが許す権利を持っていないとすれば、いったいどこに調和があり得るのだ? いったいこの世界に許すという権利を持った人間がいるだろうか? 僕は調和は欲しくない、つまり、人類に対する愛のために欲しくないというのだ。僕はむしろ報復されない苦悶をもって終始したい。たとい僕の考えが間違っていても、やるせない苦悶と、癒《い》やされざる不満の境にとどまるのを潔しとする。それに調和というやつがあまり高く値踏みされているから、そんな入場料を払うことは、どうも僕らのふところぐあいに合わないんだよ。だから僕は自分の入場券だけを急いでお返しする。僕が潔白な人間であるならば、できるだけ早くお返しするのが義務なんだよ。だから僕はそれを実行するのだ。ねえ、アリョーシャ、僕は神様を承認しないわけではない、ただ『調和』の入場券をつつしんでお返しするだけのことだよ」
「それは謀叛《むほん》です」と、アリョーシャは眼を伏せながら小声で言った。
「謀叛? 僕は、おまえからそんなことばを聞きたくなかったんだが」と、イワンはしんみりした声で言った、「謀叛などで生きて行かれるかい、僕は生きて行きたいんだよ。さあ、僕はおまえを名ざして聞くから、まっすぐに返事してくれよ――いいかい。仮りにだね、おまえが最後において、人間を幸福にし、かつ平和と安静を与える目的をもって、人類の運命の塔を築いているものとしたら、そのためにただ一つのちっぽけな生き物を――例のいたいけな拳を固めて自分の胸を打った女の子でもいい――是が非でも苦しめなければならない、この子供のあがなわれざる涙なしには、その塔を建てることができないと仮定したら、おまえははたしてこんな条件で、その建築の技師となることを承諾するかえ? さあ、偽らずに言ってくれ!」
「いいえ、承諾するわけにはいきません」と、アリョーシャは小声で答えた。
「それからね、世界の人間が、いたいけな受難者のなんのいわれもない血潮の上に打ち建てられたような幸福に甘んじて、永久に幸福を享受するだろうなんかというような考えを、おまえは平気で認めることができるかい?」
「いや、できません。けど、兄さん」とアリョーシャは急に眼を輝やかしながら、こう言いだした。「兄さんは今、許すという権利を持ったものが、この世の中にいるだろうかと言いましたね? ところが、それがいるんですよ。その人ならばいっさいのことに対して、すべての人を許すことができるのです。それというのも、その人はあの人に代わって、自分で自分の無辜《むこ》の血を流したからです。兄さんはこの人のことを忘れていましたね。ところが、この人を基礎としてその塔は築かれるのです。この人に向かってこそ、『主よ、なんじのことばは正しかりき、なんとなればなんじの道は開かれたればなり!』と叫びもすることでしょう」
「ああ、それは『罪なきただ一人』と、あの手の血のことだろう! どうしてどうして、この人のことを忘れはしなかったよ。それどころか、どうしてこの人を引合いに出さないのかと、長いあいだ不思議に思っていたんだよ。だってたいていおまえたちは論争のときに
前へ 次へ
全85ページ中73ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中山 省三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング