l間の顔は愛に経験の浅い多くの人にとっては、時おり愛の障害になると言っておられました。しかし、人間性の中には実際、多くの愛が含まれていて、ほとんどキリストの愛に等しいようなものさえありますよ。それは僕自身だって知っていますよ。イワン……」
「でも、今のところ、僕はまだそんなのを知らないし、理解することだってできないよ、そして数えきれない大多数の人間も僕と同じなんだ。問題は、人間の悪い性質のためにこんなことがおきるものか、それとも人間の本質がそういう風にできているのか、という点にあるんだ。僕の考えでは、人類に対するキリストの愛は、この地上にあり得べからざる一種の奇跡なんだよ。なるほどキリストは神であった。けれど、われわれは神じゃないんだからね。よしんば僕が深い苦悶を味わうことができるにしても、どの程度まで苦悶しているのか、他人にはけっしてわかるもんじゃない。だって、他人は他人であって僕ではないから。それに、人間というやつはあまり他人を苦悩者として認めるのを喜ばないものなのだ、(まるでそれが礼儀でもあるようにね)どうして認めたがらないと思う? それはたとえば僕の体にいやな臭いがあるとか、僕が愚かしい顔をしているとか、でなければ、いつか僕がその男の足を踏んづけたとか、そういったような理由によるんだ。それに苦悩にもいろいろある。屈辱的な苦悩、僕の人格を下げるような苦悩、たとえば空腹といったようなものなら、慈善家だって許してくれるけど、少しく高尚な苦悩、たとえば理想のための苦悩なんてものになると、きわめて少数の場合以外には、けっして許してくれない。なぜかというと、僕の顔を見ると、その慈善家が空想していたような理想のための受難者の顔とはまるで似ても似つかないからというのだ。そこで僕はその人の恩恵を取り逃がしてしまうことになる。それはけっしてその人の悪意からではない。乞食、ことにたしなみのある乞食は、断じて人前へ顔をさらすようなことをしないで、新聞紙上で報謝を乞うべきだ。抽象的な場合ならまだまだ隣人を愛することもできる。遠くからなら隣人も愛し得るが、そばへ寄ってはほとんど不可能だ。もしも舞踊劇の舞台でのように、乞食が絹の襤褸《ぼろ》を着て、破れたレースをつけて出て来て、優雅な踊りをしながら報謝を乞うのだったら、まだしも見物していられるよ。しかし、それも見物するというまでで、けっして愛するというわけにはいかないもんだ。いや、こんなことはもうたくさんだ。ただ僕はおまえを僕の見地へ立たして見さえすればよかったんだ。僕は一般人類の苦悩について話したかったのだが、今はむしろ子供の苦悩だけにとどめておこう。これは僕の論拠を十分の一くらいに弱めてしまうけれど、しかしまあ、子供のことだけにしよう。これはもちろん、僕にとって不利益なんだけれどね。第一、子供はそばへ寄っても愛することができる。きたないやつでも器量のよくないやつでも愛することができる。(もっとも僕には器量のよくない子供というものはけっしていないように思われるんだがね)第二に、僕が大人のことを話したくない理由は、彼らが醜悪で愛に相当しないばかりでなく、彼らに対しては天罰というものがあるからだ。大人は知恵の実を食べて、善悪を知り、『神のごとく』なってしまった。そして今でも引き続きやはりその果実《このみ》を食べている。ところが子供はまだ何も食べないから、今のところまだ全く無垢《むく》なのだ。おまえは子供が好きかえ、アリョーシャ? わかってるよ、好きなのさ。だからいま僕がどういうわけで子供のことばかり話そうとするか、おまえにはちゃんと察しがつくだろうよ。で、もし、子供までが同じように地上で恐ろしい苦しみを受けるとすれば、それはもちろん、自分の父親の身代わりだ、知恵の実を食べた父親の身代わりに罰せられるんだ――でも、これはあの世[#「あの世」に傍点]の人の考え方で、この地上に住む人間の心には不可解だ。罪なき者が、他人の代わりに苦しむなんて法はないじゃないか。まして罪なき子供が! こう言ったら驚くかもしれないがね、アリョーシャ、僕もやはり子供が好きでたまらないんだよ。それに注目すべきことは、残酷で情欲や肉欲の旺盛なカラマゾフ的人物が、どうかすると非常に子供を好くものだよ。子供が本当に子供でいるあいだ、つまり七つくらいまでの子供は、おそろしく人間ばなれがしていて、まるで別な性情を持った別な生き物の観があるよ……。僕は監獄へはいっている一人の強盗を知っているが、その男は商売のために、毎晩毎晩あちこちの家へ強盗にはいって、一家族をみなごろしにするようなこともよくあるし、時には一時に幾人もの子供を斬り殺すような場合もあった。ところが、監獄へはいっているうちに、奇態なくらいに子供が好きになったのだ。やつは獄窓から庭に遊んでいる子供を眺めるのを、自分の日課のようにしていた。一人の小さい子供などは、うまく手慣づけられて、いつもその窓の下へやって来て、大の仲よしになったほどだ……ところで、僕がなんのためにこんな話をもちだしたのか、おまえにはわからんだろうな? ああ、なんだか頭が痛い、そしていやに気が滅入ってきた」
「兄さんは変な顔をして話をしますね」とアリョーシャは不安そうに注意した、「なんだか気でも違った人のようですよ」
「話のついでだけれど、モスクワであるブルガリヤ人から、こんな話を聞いたよ」弟のことばが耳にはいらないように、イワン・フョードロヴィッチはことばをついだ、「あの国ではね、トルコ人やチェルケス人が、スラヴ族の反乱を恐れて、いたるところで暴行をするそうだ。つまり、家を焼く、人を切る、女子供に暴行を加える、囚人の耳を塀へ釘づけにして一晩じゅう打っちゃっておいて、朝になると首を絞めてしまう――などという、とても想像もつかないありさまなんだ。実際よく人間の残忍なふるまいを『野獣のようだ』などというけれど、これは野獣にとっておそろしく不公平で、侮辱的な言いぐさだよ。だって、野獣はけっして人間のように残忍なまねはしないものだ、あんなに技巧的で芸術的な残酷なまねなんかはできっこないよ。虎だって、ただかむとか引き裂くといったことしかできないものだ。人間の耳を一晩じゅう釘づけにしておくなんて、たとい虎にそんな能力があったにしろ、考えも及ばないことだ。とりわけ、そのトルコ人どもは、変態性欲をもって子供をさいなむんだそうだ。まず母親の胎内から、匕首《あいくち》でもって子供をえぐり出すという辺から始まって、ひどいのになると、乳飲み子を空へ放り上げて、母親の眼の前でそれを銃剣の先で受け止めて見せるやつもある。母親の面前でやるというのが、おもなる快感を形づくっているわけだな。ところが、もう一つ非常に僕の興味をそそる場景があるんだよ。それは、まず一人の乳飲み子がわなわなと震える母親の手に抱かれていて、あたりには侵入して来たトルコ人が群がっている、といった光景を想像して御覧。ところで、この連中が一つ愉快なことを思いついてね、一生懸命あやして、赤ん坊を笑わせようとしていたんだが、とうとういいあんばいに赤ん坊が笑いだしたのさ。その刹那《せつな》、一人のトルコ人がピストルを取り出して、赤ん坊の顔から五、六寸のところから狙いを定めた。すると赤ん坊は嬉しそうにきゃっきゃっと笑いながら、ピストルを取ろうと思って、小さな両手を伸ばす、と、いきなりその芸術家は顔のまん中を狙って、ズドンと引き金を引いて、小さな頭をめちゃめちゃに砕いてしまうんだ……いかにも芸術的じゃないか? ついでながら、トルコ人は非常に甘いものが好きだって話だ」
「兄さん、何のためにそんな話をするんです?」と、アリョーシャが尋ねた。
「僕は、もし悪魔というものが存在しないで、人間がそれを創り出すとしたら、きっと人間そっくりの形に悪魔を作っただろうと思うんだがなあ」
「そんなことをいえば、神様だって同じことですよ」
「おまえは『ハムレット』の中のポローニアスみたいに、なかなかうまくことばをそらすね」とイワンが笑いだした、「おまえはうまく僕のことばじりを押えたもんだ。いや結構結構、大いに愉快だよ。しかし、人間が自分の姿や心に似せて創り出したものだったら、さぞかしおまえの神様は立派なもんだろうな。ところで、いまおまえは、何のためにあんな話をもちだしたかって尋ねたんだね? 実はね、僕はある種の事実の愛好家で、同時に収集家なので、新聞や人の話から手当たり次第に、そういう種類の逸話をノートに取って集めているんだ。もうだいぶ立派な収集ができたよ。例のトルコ人ももちろんその収集の中へはいってるんだが、こんなのはみんな外国種だからな。ところが、僕はロシア種もだいぶ集めた。その中には、あのトルコ人よりも一段すぐれたやつさえあるんだ。おまえも知ってるとおり、ロシアではずいぶんよくなぐる。それも多く笞《むち》や棒でなぐる、しかもそこが国民的なんだよ。わが国では耳を釘づけにするなんてことは夢にも考えない。われわれはこれでもヨーロッパ人だけれど、しかし笞とか棒とかいうやつは妙にロシア的なものになってしまって、われわれから奪い去ることができなさそうだ。外国では今はあんまりなぐったりなんかしないようだ。人情が美しくなったのか、それとも人間をなぐってはならぬという法律でもできたのか、その辺はよく知らないけれどね。その代わり外国の連中は別なもので、ロシア人と同様、国粋的なもので埋め合わせをしているよ。それはロシアではとても不可能なほど、国民的なものなんだ。もっともロシアでも――ことに上流社会で宗教運動が始まったころからは、そろそろ移植されかけたようだがね。僕はフランス語から訳したおもしろいパンフレットを持っている。これにはつい最近、ほんの五年ばかり前にスイスのジュネーヴで、ある殺人犯の悪党を死刑にした話が書いてあるんだ。それはリシャールという二十三になる青年で、死刑の間ぎわに悔悟してキリスト教にはいったんだそうだ。そのリシャールは誰かの私生児で、まだ六つくらいの子供のとき、両親が山に住んでいるスイス人の羊飼いにくれてやったのだ。羊飼いは仕事に使おうと思って、その子供を育てたわけだが、子供は羊伺いのあいだで、野獣のように育った。彼らは子供に何一つ教育を施さなかったばかりか、かえって七つくらいの年にはもう羊飼いに追い使ったくらいだ。しかも雨が降ろうが寒かろうが、ろくに着物も着せなければ食物さえほとんど与えなかったのだ。羊飼いの仲間はそんなことをしながらも、誰ひとり悪かったと言って後悔する者なんかありはしない。それどころか立派に権利でも持っているように考えていたのさ。なぜって、リシャールは品物かなんぞのようにもらい受けたのだから、養ってやる必要さえないと思ってたんだからね。リシャール自身の証言によると、そのころこの少年は、まるで聖書の中の放蕩息子《ほうとうむすこ》のように売り物の豚に与える餌《えさ》でもいいから、何か食べたくてたまらなく思ったが、それさえ食べさせてもらえなかった。彼が豚の餌を盗んだ時には折檻《せっかん》されたくらいなんだ。こんな風にして彼は少年時代と青年時代を送ったが、やがて、すっかり成人して体力が固まると、自分から進んで泥棒に出かけたのだ。この野蛮人はジュネーヴの町で日雇い稼ぎをして金をもうけては、もうけた金を酒代にして、ならず者のような生活をしていたが、結局、しまいにある老人を殺して持ち物を剥《は》いだんだ。リシャールはたちまち逮捕されて裁判を受け、死刑を宣告された。あちらの連中は感傷的な同情なんかしないからねえ。ところが牢へはいるとさっそく、牧師だの各キリスト教団体の会員だの慈善家の婦人だのといった、いろんな連中がこの男を取りまいて、監獄の中で読み書きを教えて、しまいには聖書の講義まで始めたんだ。そうして、説教したり、さとしたり、おどしたり、すかしたりされた結果、ついに人は厳かに自分の罪を自覚するにいたったのだ。そこで、リシャールは、自分から裁判所当てに手紙を書いて、『自分はしようのないな
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