、四時間でも、五時間でも、六時間でも、七時間でも、しかし、いいかい、今日じゅうに、たとえ夜中になっても、金を持ってなり、持たないでなり、カテリーナ・イワーノヴナのところへ行って、兄がよろしく申しましたと言ってくれるんだよ。おれはおまえにぜひこの『よろしく申しました』っていう句を言ってもらいたいんだよ」
「ミーチャ! でも、不意に今日グルーシェンカがやって来たら……今日でなくても、明日なり、明後日なり?」
「グルーシェンカが? 狙っていて見つけ次第踏んこんで邪魔をしてやる……」
「でももしか……」
「もしかなんてことがあったら、打ち殺しちまうさ。指をくわえて見ちゃいないよ」
「誰を殺すんです?」
「爺いをさ。女は殺さないよ」
「兄さん、なんてことを言うのです!」
「いや、おれにはわからない、わからない……もしかしたら殺さないかもしれないし、また場合によっては殺すかもしれん。ただ、いよいよの瞬間に親爺の顔を見て急に憎悪を感じやしないかと、ただそれだけが気になるんだ。おれにはあの喉《のど》団子や、あの鼻や、あのふてぶてしい嘲弄《ちょうろう》が憎らしくてたまらないのだ。全体に虫が好かないのだ。それが心配なんだよ。こればかりは我慢がならないから」
「ミーチャ、僕行って来ます。僕は神様が、そんなに恐ろしいことの起こらないように、じょうずに取りさばいてくださることを信じます」
「じゃ、おれはここに坐って、奇跡を待つことにしよう。もし奇跡が起こらなかったら、その時は……」アリョーシャは思いに沈みながら、父のもとをさして出かけた。
六 スメルジャコフ
彼ははたしてまだ父が食卓に向かっているところへ行った。この家には別に本式の食堂があるのに、いつもの習慣で食卓は広間に用意されてあった。それは家じゅうでいちばん大きい部屋で、なんだか昔くさい造りの室内装飾が施してあった。家具類は思いきり古風なもので、白い骨に古ぼけた赤い絹まじりの布が張ってある。窓と窓とのあいだの壁には鏡がはめこんであるが、その縁《ふち》はやはり白地に金をちりばめて、古くさい彫刻をごてごてと施したものである。もうあちらこちら裂けた白い紙張りの壁には、二つの大きな肖像画がもったいらしく掛かっている――一つのほうは、三十年ばかりも前にこの地方の総督をしていた、さる公爵で、もう一つのほうはやはりよほど以前に世を去ったある僧正であった。部屋の正面の隅には幾つもの聖像が安置されて、夜になるとその前に燈明があげられたが、それは信心のためというよりは、夜分部屋の中を明るくするためであった。フョードル・パーヴロヴィッチは毎晩たいへん遅く、夜明けの三時か四時に寝につくので、それまでは部屋の中を歩き回ったり、肘椅子に腰かけて考えごとをするのであった。それが癖になってしまったのである。彼はよく召し使いを傍室《はなれ》へさげてしまって、まるきり一人で母家に寝ることがあったけれど、たいていは下男のスメルジャコフが毎晩、彼の身辺に居残って、控え室の腰かけの上で寝ていた。アリョーシャがはいって行ったときには、もう食事が済んでジャムとコーヒーが出ていた。フョードル・パーヴロヴィッチは食後に甘いものを食べてコニャクをやるのが好きであった。イワン・フョードロヴィッチもやはり食卓に向かってコーヒーを飲んでいた。従僕のグリゴリイとスメルジャコフが食卓のそばに立っていた。どうやら主人側も召し使いのほうも、目にみえてひどく愉快にはしゃいでいるらしかった。フョードル・パーヴロヴィッチは大きな声で笑ったり、にこにこしていた。アリョーシャは玄関へはいったばかりで、もうあの父の、前からよく聞き慣れているかん高い笑い声を耳にしたのである。彼はその笑い声から、父がまだ酔っ払うというところまでにはだいぶ間のある、ほんの一杯機嫌になっているにすぎないことを、たちどころに推察した。
「ほら、来たぞ、来たぞ!」と、フョードル・パーヴロヴィッチはアリョーシャのやって来たのをむしょうに喜んでわめきだした。「さあ相伴をしろ、ここへ来てコーヒーを一杯やんな――なあに、精進のコーヒーだよ、精進の。熱くて、うまいぞ! コニャクはすすめないよ、おまえは精進を守ってるのだからな、しかしどうだ、少しやらんか? いや、それよりおまえにはリキュールをやろう、すばらしいやつだぜ! スメルジャコフ、戸棚へ行って取って来い、二番目の棚の右側にある。そら鍵だ、早く持って来い!」
アリョーシャはリキュールを断わろうとした。
「なあに、どうせ出すんだ。おまえがいらなきゃ、わしらがやるよ」と、フョードル・パーヴロヴィッチはほくほくしながら、「それはそうと、おまえ、食事は済んだのか、どうだ?」
「もう済みましたよ」とアリョーシャは答えたものの、その実、修道院長の台所で、パンを一切れにクワスを一杯飲んだだけであった。「僕はこの熱いコーヒーをいただきましょう」
「可愛いやつ! 感心感心! こいつはコーヒーを飲むっていうぜ。温めなくていいかな? いや、まだ煮え立っておるわい。すばらしいコーヒーだて、スメルジャコフのお手ぎわだよ。この男はコーヒーと魚饅頭にかけては名人だ。あ、それからまだ魚汁《ウハー》にかけてもな。ほんとにいつか、魚汁を食いに来んか。そのときは前もって知らせるんだぞ……いや待て待て、さっき、わしは今日さっそく蒲団と枕を持って帰って来いとおまえに言いつけたが、ほんとに蒲団をかついで来たかよ? へ、へ、へ!」
「いいえ、持って来ませんよ」アリョーシャも薄笑いをした。
「な、びっくりしたろ、さっきはほんとにびっくりしたろ? なあこれ、坊主、わしがおまえを侮辱するなんてことはとてもできるこっちゃないわい。でな、イワン、わしはこれがこんな風にわしの顔を見て笑うと、どうも平気で見ちゃいられないわい、いや、こたえられないて。つい誘われてにっこりしてしまうのだよ、可愛くてな! アリョーシカ、さあひとつわしが父としての祝福を授けてやろう」
アリョーシャは立ち上がった。しかしフョードル・パーヴロヴィッチはもうそのあいだにも気持を変えていた。
「いや、いや、今はただ十字を切ってやるだけにしとこう、さあこれでよしと。掛けな。ところで、おまえの喜びそうな話があるのだよ。しかもおまえの畑なんだぜ。腹の皮をよるこったろうて。うちのヴァラームの驢馬《ろば》がしゃべりだしたのさ。そのまた話のうまいことといったら!」
ヴァラームの驢馬とは、下男のスメルジャコフのことであった。彼はまだやっと二十四、五歳の若者であった。が恐ろしく人づきの悪い黙り者であった。それも内気な、はにかみやというわけではなくて、反対に彼は傲慢《ごうまん》な性質で、人をすべて軽蔑しているようなところがあった。それはさて、ここで、この男のことをたとえひと言でも述べておかなければならない。しかもちょうど今でなくてはならないのである。彼はマルファ・イグナーチエヴナとグリゴリイ・ワシーリエヴィッチの手で育てられたが、グリゴリイの言いぐさではないが、『まるで恩知らず』に成長して、野育ちの子供らしく隅《すみ》っこから世間をうかがうようにしていた。小さいころに彼は、猫を絞め殺して、あとで葬式のまねをするのが大好きであった。そのために敷布をひっかけて法衣の代わりにして、何か香炉《こうろ》の代わりになるものを猫の死骸の上で振り回しながら、讃美歌をうたったものである。これは厳重な秘密裡《ひみつり》にこっそりと取り行なわれた。ある時、そういうお勤めをしているところを、グリゴリイに見つけられて、鞭《むち》でこっぴどく折檻《せっかん》されたことがある。するとこの子供は片隅へ引っこんでしまって、一週間ばかりというもの、そこから白い眼を光らせていた。『このできそこないはわしやおまえを好いていねだよ』とグリゴリイは妻のマルファ・イグナーチエヴナに言い言いした。『いや、誰ひとり好いていねんだよ。それでも手前は人間なのかい?』と、彼はだしぬけに当のスメルジャコフに向かって、こんな風に言うことがあった。『うんにゃ、手前は人間じゃねえ。湯殿の湿気からわいて出たやつだ、それが手前なんだぞ……』それはあとでわかった話だが、スメルジャコフはいつまでもこのことばを恨みに思っていた。グリゴリイは彼に読み書きを教えた。そして子供が十二歳になったとき聖書の講釈をしにかかった。が、それはすぐ失敗に終わった。まだほんの二度目か三度目の稽古《けいこ》のおり、子供は不意ににやりと笑った。
「どうしたんだ?」と、眼鏡ごしにいかつく子供をにらみながら、グリゴリイが問いただした。
「なんでもありません。神様が世界をお創《つく》りになったのは初めの日でしょう。それだのにお日様やお月様やお星様ができたのは四日目じゃありませんか。はじめての日にはどこから明りが映したのです?」グリゴリイは立ちすくんでしまった。少年はあざけるように教師を見やった。その眼眸《まなざし》にはどこか高慢ちきなところさえうかがわれた。グリゴリイはとてもこらえきれなかった。『そうら、ここからだ!』とどなりざま、猛烈に教え子の頬桁《ほおげた》をなぐりつけた。子供は黙ってその折檻をこらえていたが、またもや幾日かのあいだ隅っこへ引っこんでしまった。ところが、ちょうどそれから一週間たって、彼の一生の持病となった癲癇《てんかん》の兆侯がはじめて現われた。このことを聞くと、フョードル・パーヴロヴィッチは突然この子供に対する態度を一変したようである。それまで彼は、一度も叱りつけるようなこともなく、出会うごとに一カペイカずつくれてやったり、機嫌のいいおりには食卓へ出た甘いものを届けてやったりしたこともあったが、なんだか無関心な眼で子供を眺めていた。ところが病気の話を聞くと共に、急にこの子供のことを心配しだして、医者を迎えて治療にかかったけれど、治療の見込みはないということがわかった。発作は一月に平均一度ぐらい襲ってきたが、その期間はさまざまであった。また発作の程度もまちまちで、ときには軽く、ときには非常に激烈であった。フョードル・パーヴロヴィッチはグリゴリイに向かって、子供に体刑を加えることを厳しく禁じた。そして子供に上の自分の部屋へ出入りすることを許した。また、どんなことにもせよ、物を教えることも当分のあいだ差し留めた。ところが、ある時、子供はもう十五になっていたが、フョードル・パーヴロヴィッチは彼が書棚の辺をうろつき回って、ガラス戸ごしに本の標題を読んでいる姿を見た。フョードル・パーヴロヴィッチのところにはかなりたくさん、百冊あまりも書物があったけれど、彼が書物を読んでいるのを見た者は一人もなかった。彼はさっそく戸棚の鍵をスメルジャコフに渡した。「さあ、読め、読め、庭をうろつき回っているより、図書係りにでもなったほうがましだろう。坐って読むがいい。まあ、こんなものでも読んでみろ」そう言ってフョードル・パーヴロヴィッチは『ディカンカ近郷夜話』を抜き出して与えた。
子供は読みにかかったが、ひどく不満らしい様子で、にこりともしないばかりか、読み終わった時には、かえって顔をしかめていたくらいである。
「どうだい? おかしくないかい?」と、フョードル・パーヴロヴィッチが聞いた。
スメルジャコフは黙りこんでいた。
「返事をしろ、ばかめ」
「嘘ぱちばかり書いてありますね」とスメルジャコフはにやにやしながら曖昧《あいまい》な返事をした。
「ふん、勝手にしろ、この下郎根性め。まあ待て、これを貸してやろう、スマラグドフの万国史だ。これならば本当のことばかり書いてあるぞ、読んでみろ」
けれどスメルジャコフはそのスマラグドブも十ページとは読まなかった。まるっきり退屈なものに思われたのである。こんな風で書棚はまたもとのように閉じられてしまった。間もなくマルファとグリゴリイは、スメルジャコフが妙にだんだん気むずかしくなったことを、フョードル・パーヴロヴィッチに報告した。というのは、スープをすすりにかかっても、匙《さじ》を握ったまましきりとスー
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