さえそこなうほどに至った、とりわけ長老は懺悔の神秘を濫用するなどということであった。この非難はばかばかしいものであったから、この町ばかりでなく全体にわたって、自然といつの間にか消滅してしまった。ところがフョードル・パーヴロヴィッチをつかまえて、本人の神経をかりたてて、いずことも知らぬ汚れの深みへ、しだいに遠く連れて行く愚かな悪魔が、この古い非難を彼の耳に吹きこんだのであるが、しかも当のフョードル・パーヴロヴィッチにはこの非難の意味が初手からわからなかったのである。で、それを正確に言い現わすこともできなかったし、おまけに長老の庵室では誰ひとり膝をつくものもなければ、大きな声で懺悔するものもなかった。したがって、フョードル・パーヴロヴィッチはそんなことを目撃するはずは全然なく、ただうろ覚えの古い風説や讒誣を種にしゃべりだしただけの話である。しかしこの愚劣な話をもちだすと同時に、うっかりばかなことを口外したなと気がついたので、自分の言ったのはけっしてばかげたことでないということを聞き手に、というよりはむしろ自分自身にさっそく、証拠だてようと思ったのである。彼は自分でもこのさき一語を加えるごとに、すでに、口をすべらせてしまった愚かなことばに、なおいっそう愚かしさが加わっていくばかりだ、ということをよく承知していたけれど、もう自分で自分を制することができず、まるで急坂をくだるように突進してしまったのである。
「なんというけがらわしいことだ!」とミウーソフが叫んだ。
「お許しください」と突然、院長が言った。「古《いにしえ》からのことばに『人々われにさまざまなることばを浴びせて、ついには聞くに耐えざるけがらわしきことすらも口にす。われかかることばをも忍びて聞く、これキリストの医術にして、わがおごれる魂《こころ》を矯《た》めんがために、おくられたるものなればなり』とあります。それゆえわたくしどもも、このうえなく貴《とうと》いお客人たるあなたにつつしんでお礼を申し上げます」そして彼は腰を深くかがめてフョードル・パーヴロヴィッチに会釈した。
「ちぇっ、ちぇっ、ちぇっ! 偽善と紋切り型だ! 紋切り型の文句と所作だ! 古臭い嘘っぱちと頭を地べたにくっつけるお辞儀の繁文褥礼《はんぶんじょくれい》だ! そんなお辞儀は先刻承知の助だよ! 『唇に接吻、胸に匕首《あいくち》』とシルレルの『群盗』の中にもありまさあね。なあ神父さんたち、わしはごまかしが嫌いで、真実が欲しいんでさ! だが、真実は※[#「魚+夫」、168−17]《かまつか》の中にはありませんぜ、それはもうわしが言明したとおりですよ! 坊さまがた、なんだってあんたがたは精進をしておいでなさる? どうしてそんなことの褒美《ほうび》に天国へ行けると思っておいでなさる? ほんとにそんな褒美がもらえるのなら、わしだって精進をしますぜ! ねえ、お偉いお坊さん、お寺に閉じこもって人の焼いたパンを食べながら、天上の報いを待っているより、世の中へ乗り出して徳を行って、社会に貢献されたらどうですな――しかし、こいつは少々骨ですよ。院長様、わしでもなかなかうまいことを言いましょうがな。いったいここにはどんな御馳走《ごちそう》があるんだろう?」と彼は食卓へ近寄った。「ファクトリヤの古いポートワインに、エリセーフ兄弟商会の蜂蜜か……これはどうもお坊さんがたとしたことが! こいつは※[#「魚+夫」、169−6]《かまつか》どころの騒ぎじゃない。酒のびんをしこたま並べましたな、へ、へ、へ! いったいこういうものは誰がここへ持って来たのだね? これは勤勉なロシアの百姓が胼胝《たこ》だらけの手で稼《かせ》いだ一カペイカ、二カペイカの金を、家族や国家の入用を後回しにして、ここへ持って来たんでさ! ほんとにお偉い方丈様、あなたたちは人民の生き血をすすっておいでなさるのだ!」
「それはあまりといえば乱暴な言いぐさです」とヨシフ神父が言った。パイーシイ神父は強情に押し黙っていた。ミウーソフはぱっと部屋を駆け出した。それについで、カルガーノフも飛び出した。
「じゃあ、お坊様がた、わしもミウーソフさんの後を追って行きますよ! もう二度とここへは来ませんぜ、膝をついて頼まれたって来るこっちゃありません。わしが千ルーブル寄進したもんだから、それであなたがたはまた目を皿にして待ってなすったのでがしょう、へ、へ、へ! なんの、もうけっしてあげやしませんよ。わしは自分の過去の青年時代や、自分の受けたすべての侮辱に対して仇《かた》き討ちをするんです!」と彼は憤怒の発作をよそおって、拳《こぶし》でテーブルをどんとたたいた。「このちっぽけなお寺もわしの生涯にとっては意味深長な所だった。この寺のためにわしはいろいろと苦しい涙を流した! 女房の『憑《つ》かれた女』をわしにたてつかせたのもあんたがたじゃ。七つの会議でわしをのろって、近在を触れまわしたのもあんたがたですぞ! もうたくさんだ、今は自由主義の時代だ、汽車と汽船の世の中だ。千ルーブルはおろか、百ルーブルも、百カペイカも、なんの、一カペイカだってあんたがたにあげるものか!」
 またここで断わっておくが、けっしてこの修道院が彼の生涯に特別な意味を持ったこともなければ、彼がそのために苦い涙を流したこともありはしないのである。しかし彼は自分で自分の作り涙にすっかり感動してしまって、一瞬のあいだ自分でもそれを信じないばかりの気持になったのである。そればかりか感激のあまり泣きだしそうにさえなったくらいだが、それと同時に、もうそろそろお神輿《みこし》をあげるころあいだと感じた。修道院長はその意地の悪いでたらめに頭を下げて、再び威圧するように言った。
「また、こうも言ってあります。『なんじの上に襲いかかる凌辱《りょうじょく》をばつとめて耐え忍び、かつなんじを汚す者を憎むことなく、みずからの心を迷わしむるなかれ』われわれもこの教えのとおりにいたしております」
「ちぇっ、ちぇっ、ちぇっ、ちんぷんかんな寝言とくだらん弁説だよ! お坊さんがたはお好きなことを言っていなされ、わしは御免をこうむりますぜ。ところで、倅のアレクセイは父親の権利で、永久に引き取ってしまいますよ。さあイワン・フョードロヴィッチ、いやさ、わしの尊敬すべき倅や、わしの跡からついて来なよ! フォン・ゾン、なにもおまえだってこんなとこに居残ることはなかろう! さあ、今すぐ町のおれんとこへ来なよ。おれんちはおもしろいぞ! ほんの一|露里《エルスター》そこそこだよ。精進油の代わりに、粥《カーシャ》を添えた子豚《こぶた》を出すぜ。いっしょに飯を食おうよ。コニャクも出すし、後からリキュールも出る。苺酒《いちござけ》もあるぜ……。おいフォン・ゾン、せっかくの幸運を取り逃がさんようにしろよ!」
 彼はわめきたてながら、手ぶり身ぶりをしながら駆け出した。ちょうどこの刹那《せつな》、彼の出て来た姿を認めて、ラキーチンがアリョーシャを指さしたのである。
「アレクセイ!」と、彼はわが子の姿を見つけると、遠くから声をかけた。「今日すぐにうちへ帰っちまうんだぞ、枕も蒲団《ふとん》も引っかついで来るんだ。ここにおまえの匂《にお》いがしても承知せんぞ」
 アリョーシャは黙ってまじまじとこの光景を眺めながら、釘づけにされたように突っ立っていた。フョードル・パーヴロヴィッチはそのあいだに馬車へ乗りこんでいた。それに続いて、別れのためにアリョーシャのほうをふり向きもしないで、イワン・フョードロヴィッチが無言のまま、むっつりして馬車に乗ろうとしていた。しかしここで、あたかもこの插話《エピソード》の不足を補うかのように、滑稽《こっけい》なほとんどあり得べからざる一幕が演じられた。ほかでもない、不意に馬車の踏み段のそばへ地主のマクシーモフが現われたのである。彼は遅れまいとして、息を切らせながら駆けつけたのだ。ラキーチンとアリョーシャは彼が走って来る様子を目撃した。彼は恐ろしく取り急いで、まだイワン・フョードロヴィッチの左足が載っかっていた踏み台へ、もう我慢しきれないで片足かけると、車台につかまりながら馬車の中へ飛びこもうとした。
「わたくしも、わたくしもごいっしよに!」と、小刻みな嬉しそうな笑い声をたてて、恐悦らしい色を顔に浮かべなから、どんなことでもやってのけそうな意気ごみで、潜りこもうとしながら彼は叫んだ。
「わたくしも、お連れになって!」
「そうら、わしの言わんこっちゃないて」とフョードル・パーヴロヴィッチは有頂天《うちょうてん》になって叫んだ。
「こいつはフォン・ゾンだ! こいつこそ墓場から生き返って来た正真正銘のフォン・ゾンだ! だが、おまえどうしてあすこを脱け出て来たんだい? どんなフォン・ゾン式を発揮して、うまうまお食事《とき》をすっぽかして来たんだい? ずいぶん鉄面皮でなくちゃできない芸当だぜ! わしの面も千枚張りだが、お主《ぬし》の面の皮にも驚くぜ! 飛び上がれ、飛び上がれ、早くさ! ワーニャ、この男を乗せてやれよ、賑かでいいぞ。どこか足もとへでも坐らせてやろう。いいだろう、フォン・ゾン? それとも御者といっしょに御者台へ乗っけるかな……フォン・ゾン、御者台へ飛び上がれよ!」 
 しかし、もう座席に坐っていたイワン・フョードロヴィッチが突然、黙ったまま、力任せに、どんとマクシーモフの胸を突きのけた。で、こちらは一間あまりも後ろへはね飛ばされた。彼が倒れなかったのは、ほんの偶然である。
「やれ!」と、イワン・フョードロヴィッチは御者に向かって腹立たしげに叫んだ。
「これ、おまえどうしたんだ? どうしたんだよ? なんだってあいつをあんな目に合わせるんだ?」そう言って、フョードル・パーヴロヴィッチは体を起こしたが、馬車はもう動き出していた。イワンは何の答えもしなかった。
「そうれ、見ろやい!」と、二分ばかり黙っていてから、息子に流し目をくれながら、フョードル・パーヴロヴィッチがまた言った。「おまえは自分でこの修道院の会合をもくろんで、自分で煽《あお》り立てて賛成しておきながら、いまさら何をそんなにぷりぷりしているんだい?」
「もうばかなことをしゃべるのはたくさんです、せめて今のうちでも休んだらどうです」とイワン・フョードロヴィッチは容赦なくきめつけた。
 フョードル・パーヴロヴィッチはまた二分間ばかり黙りこんでいた。
「今コニャクを飲んだらいいんだがなあ」と彼はしかつめらしく言った。が、イワン・フョードロヴィッチは返事をしなかった。
「帰ったらおまえも一杯やるさ」
 イワン・フョードロヴィッチはやはり黙っていた。
 フョードル・パーヴロヴィッチはまた二分ばかり待ってから、
「だがアリョーシカはなんと言っても寺から引き戻すよ、おまえさんにはさぞおもしろくないことだろうがね、最も尊敬すべきカルル・フォン・モールさん」
 イワン・フョードロヴィッチは小ばかにしたようにひょいと肩をすくめると、外方を向いて、街道を眺めにかかった。それからずっと、家へ帰るまでことばをかわさなかった。
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 第三篇 淫蕩《いんとう》な人たち


   一 従僕の部屋にて

 フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマゾフの家は町の中心からかなり隔たってはいたが、そうかといって、まるっきり町はずれというわけでもなかった。それはきわめて古い家ではあったが、外観はなかなか気持がよかった。鼠色に塗りあげた、中二階つきの平家建てで、赤い鉄板の屋根がついていた。まだかなり長く保《も》ちそうで、手広く居心地よくできていた。いろんな物置きだの納戸だの、思いもかけない階段だのがたくさんあった。鼠もかなりいたが、フョードル・パーヴロヴィッチはたいしてそれには腹を立てなかった。『まあ何にしても、夜分ひとりのときさびしくなくっていいわい』実際、彼は夜分は召し使いを傍屋《はなれ》へ下げて、一晩じゅう母屋《おもや》にただひとり閉じこもるのが習慣であった。その傍屋《はなれ》は邸内に立っていて、広々とした頑丈な造りであったから、
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