なさそうなものであった。その論文は、そのころあちこちで論議されていた教会裁判問題に対して書かれたものである。すでにこの問題について公けにされた幾つかの意見を検討してから、彼は自分自身の見解を発表した。重要な点は文章の調子と、全く人の意表に出たその結論とにあった。ところで、教会派の大多数は断然彼を目して自党と確信したが、それと同時に公民権論者のみならず無神論者までがいっしょになって、各自の立場から、やんやと喝采《かっさい》し始めた。が、つまるところ、具眼の士はこの論文は、単に大胆不敵の俄狂言《にわかきょうげん》であり嘲弄《ちょうろう》にすぎないと断定した。このいきさつを特に紹介しておくのは、そのころもちあがった教会裁判問題について一般的な興味を持っていた、この町の郊外にある有名な修道院でも、たまたまこの論文が問題になって、非常な疑惑をよび起こしていたからである。さて筆者の名がわかって、それがこの町の出身者で、しかも『あのほかならぬフョードル・パーヴロヴィッチの息子である』ということがまた人々の興味を引くのであった。ところがちょうどそのころ、ひょっくりこの町へ当の筆者が姿を現わした。
な
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