度も躍起に兄のことばをさえぎろうとする衝動をかろうじて押えていたのであるが、突然、その場から飛び上がりざま口をきった。
「しかし……それはばかばかしい話ですよ!」と彼はまっかになって叫んだ、「兄さんの劇詩はイエスの賛美です、けっして非難じゃありません……、兄さんが期待した結果にはなっていません、それに誰が兄さんの自由観なんか信じるものですか! そんな、そんな風に自由というものを解釈していいものでしょうか! それがはたして正教の解釈でしょうか……それはローマです、いやローマも全体を尽くしたものではありません、それは嘘《うそ》です、それはカトリック教の中でもいちばん良くないものです、審問官や、エズイタ思想です!……それに兄さんのおっしゃる審問官のような奇怪な人物はとうていあり得るものではありません。自分の一身に引き受けた人類の罪とは、いったい何のことですか? 人類の幸福のために何かのろいを背負った、秘密の保有者とはいったいどんなものです? いつそんな人がありましたか? 僕らはエズイタ派のことは知っていますが、彼らはずいぶんひどいことを言われてますけれど、兄さんの考えてるようなものではありません! まるで違いますよ、全然そんなものじゃありません……、彼らはただ頭に皇帝を――ローマ法王をいただいた、未来の世界的王国の建設に向かって邁進《まいしん》するローマの軍隊にすぎません。それが彼らの理想で、そこにはなんの神秘もなければ、高遠な憂愁もありません……、権力と、卑しい地上の幸福と、隷属に対する最も単純な希望があるにすぎないのです……、いわば、未来の農奴制度というべきものですが、それには彼ら自身が地主になろうとしているのです……これっくらいが彼らのもっているすべての考えですよ、おそらく彼らは神だって信じてはいないでしょう。兄さんの言う苦しめる審問官はただの幻想ですね……」
「まあ、待てよ、待てっ」とイワンは笑って、「いやに逆《のぼ》せ上がるじゃないか、おまえが幻想と言うんなら、それでもいいよ! むろん、幻想さ、だがな、おまえは本当に、近世のカトリック教の運動の全部が、けがれた幸福のみを目的とする権力の希望にすぎないと思ってるのかい? そいつはパイーシイ神父にでも教わったことじゃないかな?」
「いいえ、いいえ、反対に、パイーシイ神父はいつだったか、兄さんと同じようなことを言われたことさえありますよ……しかし、むろん違います、まるで違いますよ」と、アリョーシャはあわてて言いなおした。
「いや、そいつは、おまえが『まるで違う』と言ったところで、なかなか貴重な報告だぜ。そこで一つおまえに聞きたいのはね、どういうわけでおまえのいうエズイタや審問官たちは、ただ物質的な卑しい幸福のためのみに団結したというんだい? なぜ彼らのなかには、偉大なる憂愁に悩みながら、人類を愛する受難者が一人もいないというのだい? ね、けがれた物質的幸福をのみ渇仰《かつごう》している、こういう連中のなかにも、せめて一人ぐらい、僕の老審問官のような人があったと想像してもいいじゃないか、彼は荒野で草の根を食いながら、みずから自由な完全なものになるために、自分の肉体を征服しようとして狂奔したのだが、人類を愛する念には生涯変わりがなかったのさ。ところが、一朝、忽然として意志の完成に到達するという精神的な幸福はそれほど偉大なものではない、ということを大悟したのだ。それは、意志の完成に到達した時には、自分以外の数億の神の子が、ただ嘲笑の対象物となってしまう、ということを認めざるを得ないからだ。全く彼らは自分の自由をどう処置していいかもわからないのだ、こういう哀れな暴徒の中から、バビロンの塔を完成する巨人が出て来ようはずはない、『偉大なる理想家』が、かの調和を夢みたのは、こんな鵞鳥《がちょう》のような連中のためではない、こういうことを悟ったので、彼は引っ返して……賢明なる人々の仲に加わったわけだが、そんなことはあり得ないというのかえ?」
「誰の仲間へ加わるのです、賢明なる人とは誰のことですか?」アリョーシャはほとんど激情にかられながら、こう叫んだ、「彼らにはけっしてそんな知恵もなければ、そんな神秘だの秘密だのというものもありません……あるのはただ、無神論だけです、それが彼らの秘密の全部です、兄さんの老審問官は神を言じていやしません、それが老人の秘密の全部です!」
「そうだとしても、かまわんよ! やっとおまえも気がついたってわけだね、いや、本当にそのとおりなんだ、本当に彼の秘密はただその中にのみ含まれているのだよ、しかし、それは彼のような人間にとっても苦しみではないだろうか。彼は荒野における苦行のために自分の一生を棒に振ってしまいながら、それでも人類に対する愛という病を、癒《い》やすことがで
前へ 次へ
全211ページ中195ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中山 省三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング