また、僕がドミトリイを妬《や》いてるのだの、三か月のあいだ兄貴の美しい許嫁《いいなずけ》を横取りしようとしていただのとは、まさかおまえも考えてやしなかったろうな。ええ、まっぴら御免だぜ。僕には僕の仕事があったんだ。その仕事がかたづいたから出かけるのさ。さっき僕が仕事をかたづけたのは、おまえが現に証人じゃないか」
「それは、さっきあのカテリーナ・イワーノヴナのところで……」
「そうさ、あのことだよ。一度できれいさっぱりと身を引いてしまったよ。それがいったいどうしたというんだ? ドミトリイに僕がなんの関係があるんだ? ドミトリイなんかの知ったことじゃないんだ。僕はただ自分自身カテリーナ・イワーノヴナに用があっただけの話さ。それをおまえも知ってのとおり、ドミトリイが勝手に何か僕と申し合わせでもしたような行動をとったんだ。僕が兄貴に少しも頼みもしないのに、勝手に兄貴のほうでいやにもったいぶって、あの女を僕に譲って祝福したまでの話じゃないか。全くお笑いぐさだよ。いやいや、アリョーシャ、おまえにはわかるまいけれど、僕は本当に今とてもせいせいした気持なんだよ! さっきもこうしてここに坐って食事をしているうちに、はじめて自由になった自分の時を祝うために、すんでのこと、シャンパンを注文しようとしたくらいなんだ。ちぇっ、ほとんど半年ものあいだずるずると引きずられていたが、急に一度で、全く一度ですっかり重荷がおりたよ。ほんとにその気にさえなれば、こんなに造作なくかたづけられようとは、昨日までは夢にも考えなかったからね」
「それは自分の恋についての話なんですか、イワン?」
「そう言いたければ恋と言ってもいいさ。なるほど僕はあのお嬢さんに、あの女学生に、すっかり惚《ほ》れてたのさ。あの人と二人でかなり苦労したもんだ。そしてあの人もずいぶん僕を苦しめたよ。いや本当にあの人に打ちこんでいたんだ――それが急にすっかり清算がついてしまった。さっき僕はいやに感激してしゃべったけれど、外へ出るなりからからと笑っちゃったよ――おまえ本当にするかい、いや、これは文字どおりの話なんだよ」
「今でもなんだか愉快そうに話してますね」と、実際にばかに愉快そうになってきた兄の顔をじっと眺めながら、アリョーシャが口を出した。
「それに、僕があの人をちっとも愛していないなんてことが、僕にわかるはずはなかったじゃないか、へへ! ところが、はたしてそうでないってことがわかったよ。あの人はひどく僕の気に入ってたんだよ。さっき僕が演説めいたことをしゃべったときでも、やっぱり気に入ってたんだよ。そして実はね、今でもひどく気に入ってるんだ。けれど、あの人のそばを離れて行くのが、とてもせいせいするんだよ。おまえは僕が駄法螺《だぼら》を吹いてるんだとでも思うかえ?」
「ううん、でも、ことによったらそれは恋ではなかったのかもしれませんよ」
「アリョーシャ」と、イワンは笑いだした、「恋の講釈なんかよせよ! おまえには少し変だよ。さっきも、さっきもさ、飛び出して口を入れたね、恐れ入るよ! あ、忘れてた……あのお礼におまえを接吻しようと思ってたんだ……。だが、あの人はずいぶん僕を苦しめた! 本当に羽目のそばに坐ったようなもんだ。おお、僕があの人を愛してるってことは、あの人も自分で承知しているのさ! そして自分でも僕を愛していたので、けっしてドミトリイを愛してたのじゃない」と、イワンは愉快そうに言い張るのであった。「ドミトリイは羽目さ。僕がさっきあの人に言ったことは、みんな間違いのない真理なんだ。しかし、ただ何より大事なことは、あの人がドミトリイをちっとも愛していないで、かえって自分でこんなに苦しめている僕を愛しているということを自分で悟るためには、十五年、二十年の歳月を要するってことだ。ところが、ことによったら、あの人は今日のような経験をしても、永久にそれを悟ることができないかもしれんよ。でも、まあそのほうがいいさ。立ち上がって、そのまま永久に離れ去ってしまったわけだ。ときにあの人は今どうしてるね? 僕の帰ったあとでどうだったい?」
アリョーシャはヒステリイの話をして、彼女は今でもまだ意識がはっきりしないで、うわごとを言っているだろうとまで付け足した。
「ホフラーコワが嘘をついたんじゃないか?」
「そうではないらしいんです」
「だって、調べてみなくちゃならないよ、ただ、ヒステリイで死んだものは、一人もないからね、ヒステリイというやつはあってもいいだろう。神様は好んで女にヒステリイをお授けになったのだ。僕はもう二度とあすこへは行かない。何も今さら顔を出すにも当たるまいからな」
「でも、兄さんはさっきあの人にこんなことを言ったでしょう、あの人はついぞ兄さんを愛したことがなかったって」
「あれはわざと言ったん
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