別れる前に近づきになるのがいちばんいいようだ。僕はこの三か月のあいだおまえがどんなに僕を見ていたか、よく知ってるよ。おまえの眼の中には何か絶え間のない期待、とでもいうようなものがあった。それがどうにも我慢ができなくて、そのために僕はおまえに近づかなかったんだ。ところが、とうとうしまいになって、僕はおまえを尊敬するようになった。やつは相当にしっかりしてるぞというような気がしてきたんだ。いいかい、いま僕は笑ってるけど、言うことはまじめなんだよ。だって、おまえはしっかりした足つきで立ってるじゃないか? 僕が好きなのは、そういうしっかりした人間なんだ。その立場が何であろうと、またその当人が、おまえのような小僧っ子であってもさ。で、しまいには何か期待するようなおまえの眼つきが、ちっともいやでなくなった。いや、かえってその期待するような眼つきが好きになったんだよ……おまえもどういうわけか僕を好いててくれるようだな、アリョーシャ?」
「好きですとも、イワン。あなたのことをドミトリイ兄さんは、イワンのやつは墓だといってるけれど、僕のほうは、イワンは謎《なぞ》だというんです。今でも兄さんは僕にとって謎だけれど、しかし、やっと僕は何か兄さんのあるものをつかんだような気がするんです。それも、つい今朝からのことですよ」
「いったい、それはなんだい?」とイワンが笑った。
「怒ったりなんかしないでしょうね?」とアリョーシャも笑いだした。
「で?」
「つまり、兄さんだっても、やはりほかの二十四くらいの青年と同じような青年だということです。つまり、同じように若々しくて、元気のいい、可愛い坊ちゃんです。いわば、まだ嘴《くちばし》の黄色い青二才かもしれませんよ! どうです、たいして気にさわりもしないでしょう?」
「どうしてどうして、それどころかかえって暗合に驚かされるよ!」イワンは愉快そうに熱中した調子で叫んだ、「おまえは本当にしないだろうが、さっきあの女《ひと》のところで会ったあとで、僕はそのことばかり心の中で考えてたんだ。つまり、僕が二十四歳の嘴の黄色い青二才だってことをさ。ところが、おまえは僕の腹の中を見抜いたように、いきなりそのことから話しだすじゃないか。ここに僕は坐ってるあいだ、どんなことを考えてたか、おまえにわかるかえ?――たとい僕が人生に信念を失い、愛する女に失望し、物の秩序というものを本当にすることができなくなったあげく、すべてのものは秩序のない、呪《のろ》われた悪魔的な混沌《こんとん》だと確信して、人間の滅亡のあらゆる恐ろしさをもってたたきつけられたとしても――やっぱり僕は生きてゆきたいよ、いったんこの杯に口をつけた以上、それを征服しつくすまではけっして口を離しはしない! しかし、三十にもなれば、たとい飲み干してしまわなくっても、きっと、杯をすててしまう。行く先などはどこだか分からないけれど、だが、三十の年までには僕の青春がいっさいのものを征服してしまうに違いないんだ――生に対するいっさいの幻滅もあらゆる嫌悪の情も、心の中でよく僕は、自分の持っている熱烈な、ほとんど無作法といっていいほどの生活欲を征服し得るような絶望がいったいこの世の中にあるのかしら、と自問自答したものだ。そして結局、そんな絶望はないと決めてしまったんだ。けれど、これもやはり三十までで、それからあとのことは、もう自分でも望むところではないだろうと、そんな風な気がするんだ。肺病やみのような鼻洟《はな》ったれの道学者先生は、こういった生活欲を何かと下劣なもののようにいう、詩人なんて連中はことにそうなんだ。この生活欲は性質からいうと幾分カラマゾフ的だね。それは事実だ。いずれにしてもこの生に対する渇望はおまえの心中にだって潜んでいるよ。必ず潜んでいるよ。しかし、どうしてそれが下劣だというんだ? 求心力というやつはわが遊星上にはまだまだたくさんあるからな、アリョーシャ。生きたいよ。だから、僕はたとえ論理に逆ってでも生きるんだ。たとい物の秩序を信じないとしても、僕にとっては春の芽を出したばかりの、ねばっこい若葉が尊いのだ。青い空が尊いのだ。時には全く何のためともわからない、好きになる誰彼の人間が尊いんだ。そして今ではもうとうにそれを信じようとさえしなくなっていながら、しかも古い習慣から感情の上で尊重しているある種の人間的な功名心が尊いんだ。さ、おまえの魚汁《ウハー》が来た、うんとやってくれ、うまい魚汁だよ、なかなか料理がいいぞ。僕はね、アリョーシャ、ヨーロッパへ行きたいのだ、ここからすぐ出かけるつもりだ。といっても、行く先がただの墓場にすぎないことは、百も承知している。だがその墓場は何よりもいちばんに貴い墓場ということが肝心なんだ! そこには貴い人たちが眠っている。その一人一人の上に立って
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