兵隊なんてものがすっかり消えてなくなればいいと思いますよ」
「じゃ、敵がやって来たとき、誰が国を守りますの?」
「そんな必要は少しもありませんよ。十二年に、フランスの皇帝ナポレオン一世が(今の陛下のお父さんですがね)、ロシアへ大軍を率いて侵入して来ましたが、あのときにフランス人たちがこの国をすっかり征服してしまえばよかったんですよ。あの利口な国民がこのうえなしにのろまな国民を征服して、合併してしまってでもいたら、国の様子もがらりと変わっていたでしょうにねえ」
「じゃ、外国の人はロシア人より偉いとおっしゃるんですか? わたしはロシアのハイカラな人の中には、どんな若いイギリス人を三人くらい束にして来ても、取りかえたくないと思うような人がありますのよ」と、マリヤは優しい声で言ったが、そう言いながら、ものうい眼で男を眺めたのに違いない。
「そりゃあね、めいめい好き好きがありますからね」
「それに、あなた御自身がまるで外国人のようですわ。生まれのいい外国人にそっくりよ。こんなことを言うの、わたし、きまりが悪いんだけれど」
「よかったら話しますがね、女好きなところはロシア人も外国人も似たりよったりですよ。どちらもしようのない極道どもですよ。ただ外国《あちら》のやつはエナメルの靴をはいてるのに、ロシアの極道は乞食くさい臭いをぷんぷんさせていながら、自分ではそれを少しも悪いと思わないところが違うだけです。ロシアの人間は、ぶんなぐらなければだめだ、昨日フョードル・パーヴロヴィッチの言われたとおりですよ。もっともあの人も、三人の息子たちといっしょに気がふれていますがね」
「だって、あなたはイワン・フョードロヴィッチを尊敬するっておっしゃったじゃありませんか?」
「しかし、あの人も僕をけがらわしい下男のように扱うのです。僕を謀叛《むほん》でも起こしかねない人間だと思っていますがね、そこはあの人の思い違いですよ。僕はふところに相当の金さえあれば、とうにこんなところにいはしないんです。ドミトリイ・フョードロヴィッチなんか、身持ちからいっても、知恵からいっても、貧的なことからいっても、どこの下男よりも劣った人間で、何一つできもしないくせに、みんなから崇《あが》められている。僕なんかは、よしんばただの料理人にしろ、うまくゆきさえすればモスクワのペトロフカあたりで、立派な珈琲《カフェー》兼|料理店《レストラン》を開業することができます。なぜって、僕には特別な料理法の心得がありますが、それはモスクワでも外国人をのけたら誰ひとりできる者はいないんですからね。ところがドミトリイ・フョードロヴィッチが素寒貧《すかんぴん》でありながら、しかも、一流の伯爵の息子に決闘を申しこんだとすれば、その若様は、のこのこ出かけて行くに相違ないんですよ。いったい、あの男のどこが僕より偉いんでしょう? だって僕よりは、比べものにならんほどばかだからですよ。ほんとにどれだけなんの役にも立たないことに金を使い果たしたかわかったものじゃない」
「決闘って、ほんとにおもしろいものでしょうね」といきなりマリヤが言った。
「どうして」
「とても恐ろしくって、勇ましいからよ。とりわけ若い将校なんかが、どこかの女の人のためにピストルを持って射ちあうなんて、ほんとにたまらないわ。まるで絵のようね。ああ、もしも、娘にも見せてもらえるものだったら、わたしどんなにそれが見たいでしょう」
「それはね、自分のほうが狙う時はいいでしょうが、こっちの顔のまん中を狙われる時には、それこそひどく気持の悪い話でさあね。その場から逃げ出すくらいが落ちですよ、マリヤさん」
「ほんとに、あなたも逃げ出しなさるの?」
しかるに、スメルジャコフは返事をするにも及ばぬというように、しばらく黙っていたが、やがてまたギターが鳴りだして、例の裏声が最後の一連を歌い始めた。
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どんなに骨が折れようと
遠くへ行って住みましょう
楽しい暮らしをしたいもの
花の都に暮らしたい
もうもう悲しむこともない
さらに悲しむこともない
さらに悲しむ気もないよ
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おりしも思いがけないことが起こった。アリョーシャがだしぬけにくさみをしたのである。ベンチの方の人声はぴたりとやんでしまった。アリョーシャは立ち上がって、その方へ歩み寄った。男ははたしてスメルジャコフであった。彼は晴れ着を着飾り、頭にはポマードをつけて、すこしく髪をうねらし、足にはエナメルの靴をはいていた。ギターはベンチの上に置いてあった。女はやはりこの家の娘マリヤ・コンドゥラーチェヴナで、二アルシンほどもある裳裾のついた淡い水色の着物を着ていた。まだ若くて、顔立ちのいい娘であるが、惜しいことには顔がすこし丸すぎるうえに、ひどい雀斑《そばかす》であっ
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