かと思ったくらいですもの。とうとううちの馬車に乗せて帰してしまったうえに、突然あの手紙の一件でしょう。もっとも、それはまだ、これから一年半たってからのことでしょうが、すべて偉大で神聖なものの御名をもって誓いますから――今おかくれになろうとしている長老様のお名をもって誓いますから、どうかその手紙をわたしに見せてください、母親に見せてください! もしなんなら指でしっかりつまんでてください! わたし自分の手に取らないで読みますから」
「いいえ、見せません。あの人が許しても僕は見せません。僕、明日また来ますから、もしお望みなら、そのときいろんなことを御相談しましょう、しかし今日はこれで失礼します」
 アリョーシャは階段から往来へ駆け出してしまった。

   二 ギターをもてるスメルジャコフ

 事実、彼には余裕がなかったのである。さらに、リーズにまだいとまごいをしているとき、ふっと彼の脳裡には一つの考えがひらめいた。というのは、なんとかひとつうまい工夫をこらし、明らかに自分を避けているらしい兄のドミトリイを、是が非でも今すぐに捜し出したいという願いであった。時刻ももう早くはなく、午後の二時を過ぎていた。アリョーシャは一生懸命に、あの修道院で今やこの世を去ろうとしている『偉人』のもとへ駆けつけようとあせっていたのであるが、しかも一方、兄のドミトリイに会いたいという願いがすべてのものを征服したのであった。なぜなら、彼の心の中では、何かしら恐ろしい出来事が避けがたい力をもって、まさに起ころうとしているのだという信念が、刻一刻と大きくなってきたからである。それにしても、その出来事とはどんなことなのか、またこれから兄を捜し出して何を言おうとしているのか、おそらく自分にもはっきりとはわからなかったであろう。『たとい恩師が自分のいないうちに亡くなられても、自分の力で救えるかもしれないものを救いもせずに、見て見ぬふりをして家路を急いだという自責の念のために、一生苦しむことはなくて済むであろう。つまり、そうするのが、結局、恩師のことばに添うことになるのだ……』
 彼の計画は兄のドミトリイの不意を襲うところにある――すなわち、昨日のように例の垣根を乗り越えて庭にはいりこみ、例の四阿《あずまや》にまず落ち着こうというのであった。『もしも兄がそこにいなかったとしたら、フォマにも家主のお婆さんにも言わずに、じっと隠れたまま、晩までも四阿《あずまや》で待っていることだ。兄が以前どおりグルーシェンカのやって来るのを見張っているとすれば、いずれあの四阿に姿を現わすということは大いにありうべきことだ……』とはいうものの、アリョーシャはそれほど詳しく自分の計画を何かと考えることもなく、たとい今日じゅうに修道院には帰れなくても構わぬから、さっそく実行にとりかかるうと決心したのである……。
 すべては何の故障もなく好都合にいった。彼は昨日とほとんど同じ場所の垣根を越して、こっそり四阿までたどりついた。彼が誰の眼にも触れたくないと思ったのは、家主の老婆にしろ、フォマにしろ(もしもこの男が居合わせたなら)、あるいは兄の味方をして、その言いつけを聞くかもしれない、そうすれば自分を庭へ入れてくれないか、でなければ、兄を捜して尋ね回っていることをすぐに兄に知らされるというおそれがあるからであった。四阿には誰もいなかった。アリョーシャは昨日と同じ席に腰をおろして待ちにかかった。あらためて四阿を見回したが、なぜかしら昨日よりはずっと古ぼけたものに見える。おそろしくぼろ家のように思われた。もっとも、天気は昨日と同じように、澄み渡っていた。緑色のテーブルの上には、前の日に杯からこぼれたコニャクの跡らしい、丸い形がついていた。いつも人を待つ退屈なときに経験する、なんの役にも立たない、たとえば自分は今ここへはいって来て、なぜほかの場所へ坐らずに昨日とちょうど同じ席へ腰をおろしたのだろうなどといったようなくだらない考えが、そっと彼の頭に忍びこむのである。ついに非常にわびしい気持になってきた。それは不安な未知に招来される一種のわびしさであった。わずかに彼が座についてから十五分とたたないうちに、不意にどこか非常に近いところで、ギターを弾《ひ》く音が聞こえてきた。前からいたのか、それともたった今、来たばかりなのか、とにかくどこか二十歩以上とは隔たっていないはずの灌木《かんぼく》のかげに誰かがいる。アリョーシャはふと思い出した――きのう兄と別れて四阿《あずまや》を出るとき、左手の前にあたる灌木のあいだに、低い緑色の古びた腰掛けがあるのを見た、といおうか、ちらりとそれが眼にはいったのであった。きっとそのベンチに今坐ったに違いない。だがいったいそれは誰だろう? と、不意に一人の男らしい声が、自分でギターで伴奏
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