そんな冗談を言うもんじゃなくってよ。でも本当に寝《やす》んだらどう!」とホフラーコワ夫人は叫んだ。
「僕にはわかりません、どうしてこう……僕はもう三分ほどここにいます。もしなんなら、五分でも」とアリョーシャはつぶやいた。
「五分でもって! ねえ、お母さん、早くこの人を連れてってちょうだいよ、この人はお化けだわ!」
「リーズ、おまえは気でも違ったのかい。さあ、まいりましょう、アレクセイさん。この子は今日あんまり気まぐれがひどすぎますよ、わたし、この子の気をいらいらさせるのがこわくてなりません。ああ、神経質の女を相手にするのはつらいですね。アレクセイさん! でも、本当にこの子はあなたのそばにいるうちに、眠くなったのかもしれませんよ。まあ、よくそんなに早く、この子に眠気をつけてくださいましたわね、本当にいいあんばいでしたわ!」
「あら、まあ、お母さんはたいへん愛想のいいことを言えるようになりましたわね。御褒美《ごほうび》にあたし接吻してあげるわ」
「じゃ、わたしもおまえを。ところで、アレクセイさん」アリョーシャといっしょに部屋を出ながら、夫人は秘密めかしいものものしい調子で早口にささやいた、「今わたしは、あなたに何もほのめかす気もありませんし、この幕を上げるつもりもありませんよ。けれど、はいって御覧なすったら、御自分であすこの様子がおわかりになりましょう、本当に恐ろしいことです。ひどく突拍子もない狂言ですよ! あの人はイワンさんを愛してらっしゃるのに、御自分では一生懸命にドミトリイさんを愛していると、強情を張りなさるって。恐ろしいわねえ! わたしはあなたといっしょにはいって行って、もしも追い出されなかったら、しまいまでじっとすわっていましょうよ」

   五 客間における破裂

 しかし、客間ではもう話が済んでいた。カテーリナは思いきったような風をしていたが、ひどく興奮していた。ちょうど、そのときアリョーシャとホフラーコワ夫人がはいって来たのであるが、イワンは席を立って帰ろうとしていた。彼の顔はいささか青ざめていたので、アリョーシャは心もとなくのぞきこんだ。というのは、今アリョーシャにとって一つの疑惑が、いつのころからか彼を悩ましていた一つの不安な謎が、解決されようとしているからであった。一月ほど前から彼はいろんな方面から、兄のイワンがカテリーナに思いを寄せて、実際にミーチャの手から『横取り』するつもりでいるという噂を、ほのめかされていたのであった。ついこのあいだまで、このことはアリョーシャには、ひどく心配ではあったが、しかも実に不思議なことに思えてならなかった。彼は二人とも愛していたので、二人のあいだのこうした競争が恐ろしくてたまらなかった。そうこうしているうちに、昨日ドミトリイが不意に彼に面と向かって、自分はかえってイワンの競争を喜んでいる、そのほうがいろいろな点において自分のために都合がよいと言ったのである。どうして都合がよいと言うのか? グルーシェンカと結婚するためなのか? しかしアリョーシャには、こんなことは自暴自棄な最後の手段としか思えなかった。のみならず、彼はつい昨日の晩まで、てっきりカテリーナ自身も熱情的に、執拗《しつよう》に兄ドミトリイを愛しているものとばかり思いこんでいた(しかし、この信念もただ昨日の夕方までであった)。おまけに、――彼女はドミトリイを愛している、いかにこのような愛が奇怪に見えるとしても、現在のままの兄を愛しているに相違ないという考えが、どういうわけか、絶えず彼の心に浮かんでくるのであった。ところが、昨日グルーシェンカの騒ぎに出会って、いきなり別な考えが彼の心を打った。たった今、ホフラーコワ夫人の言った『破裂』ということばは、あやうく彼を震えあがらせるところであった。つまり、今朝の夜明けごろ、うつらうつらしているうちに、おそらく自分で自分の夢に答えるつもりであったろう、だしぬけに『破裂、破裂』と叫んだからである。彼は夜通し例のカテリーナのところでの恐ろしい場面を夢みていた。カテリーナはイワンを愛しているのに、何かの戯《たわむ》れのために、何かの『破裂』のために、いたずらに自分を欺いて、何やら感謝の念でも現わしたさに、兄ドミトリイを愛しているように見せかけて、わが身を苦しめているのだと、今ホフラーコワ夫人があけすけに、しつこく言ったのを聞いて、アリョーシャは心をうたれたのであった。『そうだ、ことによると、実際にあのことばには、十分の真実が含まれているのかもしれん!』と考えたのである。
 しかし、もしもそうだとしたら、イワンの立場はどうであろう? アリョーシャは一種の本能によって、カテリーナのような性格は、何かを支配せずにはいられない、ところが、彼女に支配できるのは、ドミトリイのような男であって、けっ
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