A再び床に横たわったが、もう目をつむろうとして、急にアリョーシャのことを思い起こしたので、そばへ呼んでくれるように言った。アリョーシャはすぐに駆けつけた。長老のわきにはパイーシイとヨシフ、それに新発意《しんぼち》のポルフィーリイがいるばかりであった。長老は疲れ果てた眼を見開いて、じっとアリョーシャを見つめていたが、いきなり問いかけた。
「家の人たちがおまえを待っておるじゃろうな、おまえ?」
アリョーシャはどぎまぎしていた。
「おまえに用のある人はありはせんか? 昨日、誰かに今日行くと約束はしなかったか?」
「いたしました……お父さんと……兄さん二人と……それからほかの人にも……」
「それ。ぜひとも行きなさい。心配しないがよい。わしはな、おまえのそばで、この世における最後のことばを言わずに死ぬようなことはないんじゃから。この最後のことばはおまえに言うのじゃ、ね、アリョーシャ、おまえに言いのこすのじゃ。なぜというて、おまえはわしを愛してくれるで。しかし、今は約束した人たちのところへ行くがいい」
アリョーシャはこの場を離れるのがつらかったが、すぐに、このことばに従った。しかし、師のこの世における最後のことば、しかも自分に対する遺言と思われるものを聞かしてやろうという約束は、アリョーシャの心を動かして、歓喜の情をよびおこした。彼は町の用事を早くかたづけて帰って来ようと、急いでしたくをした。ちょうどそのとき、パイーシイ主教が彼に門出のことばを与えたが、そのことばはきわめて強い、思いもよらない感銘を与えるのであった。それは二人が長老の庵室を出たときのことであった。
「おまえはな、たゆまず思い起こさねばならぬことがある(とパイーシイは何一つ前置きなしに、いきなり言いだした)。つまり、世界の科学は、一つの大きな力に結合して、ことに現代に至って、聖書に約束されておるいっさいの尊いことを解剖したのだ。世間の学者のなした容赦のない解剖分析の結果、むかし神聖なものとされていたものは、影も形も残らんことになってるのだ。しかも、彼らは部分部分のみを解剖して、全体というものをすっかり見落としておる。その盲目さかげんは驚異に価するくらいだ。ところが、その全体は、昔と同じように、しっかりと彼らの眼の前に立っていて、地獄の門もそれを征服することができないのだ。はたしてこれは十九世紀に及ぶ長いあいだ、生きておらなかったものか、また現に今でも個々の心の動きのうちに――民衆の動きの中に生きておらんものだろうか? それどころか、あらゆるものを破壊する無神論者の心の動きの中にさえ、以前と同じように厳然と生きておるのじゃ。つまり、キリスト教を否定して、反旗をひるがえす人でさえもが、その本質においては、キリストの面影を宿しておるによってじゃ、しかも今もなお、そのとおりの人として生活をつづけておるからだ。その証拠には、彼らの知恵も、彼らの情熱も、かつてキリストによって示されしもの以外に、人間とその品位に相当するすぐれたお姿を、創《つく》り出すことができなかったのではないか。種々の試みもあったが、それはいずれもかたわのような醜いものばかりだ。アリョーシャ、このことは特によう覚えておくがよろしい。なぜというて、おまえは、臨終の長老のお指図《さしず》で、世間へ乗り出して行かねばならんからだ。この偉大なる日を思い出すときに、おまえの門出のために衷心から与えたわしのことばも、やはり忘れずにおってくれるじゃろうな。なにせ、おまえは若いから、世の中の誘惑が激しゅうて、耐えてゆくのは力に及ばぬかもしれぬでな。いや、もうよい、行きなさい」
こう言ってパイーシイ主教は彼を祝福した。修道院を出て行くとき、この思いもかけないことばを思いめぐらしているうち、アリョーシャは、急に今まで自分に対して厳重冷酷であったこの主教が、今にしてみれば思いもよらない親友で、また、暖かい気持で自分を愛してくれる新しい指導者だ、ということがやっとわかってきた、――まるでゾシマ長老が死に面して、この人に遺言でもしたかのようであった。
『たぶん、お二人のあいだに、それくらいのことがあったのかもしれない』アリョーシャはふと考えた。たった今、彼の聞かされた思いがけない学者らしい議論は、ほかならぬこの議論は、パイーシイ主教の情熱に富んだ心を証明している。彼はできるだけ急いでアリョーシャの若い知性に、世の誘惑と闘うべき武器を与え、遺言によって自分に託された若い魂に、われながらこれ以上堅固なものを想像しえないくらいに、堅固な牆《かき》をめぐらそうとしたのである。
二 父のもとにて
アリョーシャはまず最初に父のところへおもむいた。そばまで来たとき、彼は昨日、父親が、なるべくイワンに見つからないようにそっとはいって来いと、
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