何でこんなに暗いの、何でこんなに暗いの。」
と言ひ言ひして上つて来た。
「あ、名古屋城が見える。」と、誰かが叫んだ。
天主閣の最上層の高欄へ出たところで、私たちはまづ南方の大平野を瞰望した。きのふ電車で駛[#「駛」は底本では「※[#「馬+央」、77−下−14]」]つて来た沿線の曠田の緑と蓮池らしい薄紅の点綴が遙に模糊とした曇天光まで続いて、ただ一つの巒色の濃い小牧山が低く小さく欝屈してゐるその左に、髣髴として立つ紫の幻塔が見える。それが金城だといふのである。さう聞けば何か閃々たる気魄が光つてゐるやうでもある。
その地平線は白の地に、黄と少量の朱と、藍と黒とを交ぜた雲と霞とであつた。その雲と霞は数条の太い煤煙で掻き乱されてゐる。鮮麗な電光飾の耀く二時間前の名古屋市である。
東から北へと勾欄へついて眼を移すと、柔かな物悲しい赤と乾酪《ヂーズ》色の丘陵のうねりが閑《しづ》かな日光の反射に浮き出してゐる隣に、二つの円い緑の丘陵が大和絵さながらの色調で竝んで、その一つの小高みに閑雅な古典的の堂宇が隠顕する。瑞泉寺山だと人が言つた。
その山から継鹿尾《つがのを》、鴉《からす》ヶ峰と重畳して、その背後から白い巨大な積雲の層がむくりむくりと噴き出てゐた。そのすばらしい白と金との向うに恵那、駒ヶ嶽、御嶽の諸峰が競つて天を摩してゐるといふのだ。見えざる山岳の気韻は彼方にある。何と籠つた葡萄鼠の曇。
と、蕭々として、白い鉄橋の方へ流るる蝉のコーラスである。
爆音がする。左岸の城山に洞門を穿つのである。奇岩突兀として聳つその頂上に近代のホテルを建て、更に岸石層の縦穴をくりぬき、しんしんとエレベーターで旅客を運ぶ計画ださうである。
と、見ると、遊覧船は屋形、或は白のテントを張つて、日本ラインの上流より矢のやうに走つて来る。その光、光、光。恰も中古伝説《レヂエンド》の中の王子の小舟のやうにちかりちかりとその光は笑つて来る。「おうい。」と呼びたくなる。
中仙道は鵜沿《うぬま》駅を麓とした翠巒の層に続いて西へと連るのは多度の山脈である。鈴鹿は幽かに、伊吹は未だに吹きあげる風雲の猪色にその山頂を吹き乱されてゐる。
眼の下の大河を隔てた夕暮富士を越えて、鮮かな平蕪の中に点々と格納庫の輝くのは各務《かがみ》ヶ原の飛行場である。
西は渺々たる伊勢の海を眼界の外に霞ませて、河口へ到る石舟の白帆は風を孕んで、壮大な三角洲の白砂と水とに照り明つて、かげつて、通り過ぎる。低く、また、ひろびろと相隔たつた両岸の松と楊《やなぎ》と竹藪と、さうして走る自転車の輪の光。
白帝城は絶勝の位置にある。
私は更に俯瞰して、二層目の入母屋の甍[#「甍」は底本では「薨」]に、ほのかに、それは奥ゆかしく、薄くれなゐの線状の合歓《ねむ》の花の咲いてゐるのを見た。樹木の花を上からこれほど近く親しく観ることは初めてである、いかにも季節は夏だと感じられる。
絶壁の上の楓の老樹も手に届くばかりに参差と枝を分ち、葉を交へて、鮮明に、澄んで閑かな、ちらちらとした光線である。
幾百年と経つた大木の樟は樹皮は禿げ、枝[#「枝」は底本では「技」]は裂けていい寂色に古びてゐる。その梢の群青を鴉がはたはたと動かして留《と》まる。かをォかをォである。
古風な白帝城。
水道の取入口は河に臨んで、その城の絶壁の下にあつた。
私たちは城を降りると、再び暑熱と外光の中の点景人物となつた。ひらひらと、しきりに白い扇が羽ばたき出した。
公園からだらだらの坂を西谷の方へ、日かげを選み選み小急ぎになると、桑畑の中へ折れたところで、しをらしい赤い鳳仙花が眼についた。もう秋だなと思ふ。
簡素な洋風の家がある。入口は開けつぱなしで、粗末な卓に何か仕事してゐるワイシャツの人がある。役場の老人がそこで何かと挨拶をする。幽かに私の名を言つてゐる。
私たちは洞門に入る。外へ出ると豁然とひらけて、前は木曾の大河である。
この大河の水は岩礁を割いた水道のコンクリートの堰と赤錆びた鉄の扉の上を僅に越えて、流れ注いで、外には濁つた白い水沫と塵埃とを平らかに溜めてゐるばかりだ。何の奇も無い閑けさである。
「この水が名古屋全市民の生命をつないでゐるのです。」と詰襟をはだけた制帽の若者が説明する。
私たちは引返して、洞門をくぐると、二台の計算機の前に出た。幽かに廻つてゐる円筒の方眼紙の上に青いインキが針から滲んで殆ど動くか動かぬかに水量と速度とをぢりぢりと鋸形に印して進む。そこで若者は三和土《たたき》の間の方五六尺の鉄板の蓋を持ちあげる。暗々たる穴の底から冷気が颯と吹きあげる。水は音なく流れて、地下十八尺の深さを、遙の大都会へ休みなく奔りつつ圧しつつある。しんしんとしたその奔入。
詩歌の本流といふものもちやう
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