い眺めと薫りとをこの子はどんなに貪り吸つたことか。父とまた初めて旅するこの子の瞳はどんなに黒く生々と燃えてゐたことか。さうして酒徒としての私にはやや差し障りさうな道連ではあつたが、時とすると侮り難い小さな監督者であらうも知れぬが、だが、私自身にも寧ろ或はそれを望んだ心もちもあつた。
 私はわが子の両手を強く握つた。――よく一緒に遣つて来た。来てほんとによかつたのだ。
 まことに白帝城は日本ラインの白い兜である。
 おお、さうして、白い※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]たけた昼のかたわれ月が、おお、ちやうどその白い兜の八幡座にある。

 白帝城に登つたのは、その上の麓の彩雲閣(名鉄経営)の楼上が、隆太郎の所謂「香ひのする魚」を冷いビールの乾杯で、初めて爽快に風味して、ややしばらく飽満した、その後のことであつた。
 その白帝園の裏手から葉桜の土手を歩いて右へ、緩いだらだら坂を少しのぼると、乾山焼の同じ構への店が竝んでゐる。それから廻ると、公園の広場になる。ところで、極彩色の孔雀が燦々《きらきら》と尾羽を円くひろげた夏の暑熱と光線とは、この旅にある父と子とを少からず喜ばせた。その隣の檻の金網の中には嬉戯する小猿が幾匹となく、頓狂に、その桃色の眼のまはりを動かすのである。
 さうだ、此処だつたなと私は思つた。金と黝朱《うるみしゆ》の羽根の色をした鳶の子がちやうどこの対ひの角の棒杭に止つてゐたのを観た七八年のことを思ひ出したのである。私はあの時|木菟《みみづく》かと思つた。ちかぢかと寄つて見ると、鳶は頭のまるい、ほんとに罪のない童顔の持主であつた。
 さうだつた、これが針綱神社だつたと私はまた微笑した。
 あの冬の名古屋市はまつたく恐怖と寒気とで、その繁華な、心臓の鼓動も停りさうであつた。悪性の流行感冒は日に幾十となくその善良な市民を火葬場に送つた。私もまた同じ戦慄の中に病臥して、きびしい霜と、小さい太陽と、凍つた月の光ばかりを眺むるより外はなかつた。旅で病むのは何と心細かつたことだらう。それに私は貧しいかぎりであつた。島村抱月氏の傷ましい訃報を新聞で知つたのもその時であつた。
 今、私の愛児は、幼年紳士は、急斜面の弧の、白い石の太鼓橋を欄干につかまりつかまり遮二無二匍ひ登らうとしてゐる。一行の誰彼が面白がつて、よいしよ/\と背後から押しあげてゐる。隆太郎は嬉々として声を立てる。やつと上つたところで、半ズボンの両脚を前へつる/\/\である。父の私も前廻りして手をうつて囃し立てる。
 昔と今と、変れば変るものだと、私は思ふ、さうだ、あの頃はまだ日本ラインといふ名すらさして知られてなかつたのだ。
「日本ラインといふ名称は感心しないね。毛唐がライン河を仏蘭西《フランス》の木曾川とも蘇川峡とも呼ばないかぎりはね。お恥かしいぢやないか」
「さうですとも、日本は日本で、ここは木曾川でいい筈なんで。」
 木曾川橋畔の雀のお宿の主人野田素峰子が直ぐと私に和した。
「みんながよくさう言ひますで。」
 私たちはいつのまにか、城の正面へと向ひつつあつた、軽い足どりで。
 浴衣に袴の、白扇を持つた痩形の老人が謹厳に私たちを迎へた。役場から見えてゐたのである。

 旧記に観ると、この犬山の城は、永享の末に斯波氏の家臣織田氏がこの地を領し、斯波満植が初めて築いたとある。斯波氏が滅びてから織田、徳川の一族が拠つて武威を張つた。小牧山合戦の際には秀吉も入城したことがあつたとかいふ。一時天下が家康に帰してからは、尾州侯の家老成瀬隼人が封ぜられた。それ以来明治維新まで連綿として同家九代の居城として光つた。
 現存の天主閣は慶長四年の秋に、家康が濃州金山の城主森忠政を信州川中島に転封したをり、その天主閣と楼櫓《やぐら》とを時の犬山城主石川光吉に与へた。それを翌る年の五月に木曾川を下してこの犬山に運び、之を築きあげたものである。斎藤大納言正茂の建築ださうである。

 この白帝城は美しい。その綜合的美観はその位置と丘陵の高さとが、明らかにして洋々たる河川の大景と相俟つて、よく調和し映照してゐるにある。加へて、蒼古な森林相がその麓からうち騰つてゐる。展望するに、はてしない平野の銀と緑[#「緑」は底本では「縁」]と紫の煙霞がある。山城としてのこのプランは桃山時代の粋を尽した城堡建築の好模型だといふが、さういへばよく肯かれる。
 ただ僅に残つて、今に聳える天主閣の正しい均斉、その高欄をめぐらし、各層に屋根をつけた入母屋作りの甍[#「甍」は底本では「薨」]、その白堊の城。
 外観こそは三層であるが、内部に入ればそれは五層に高まつてゆく。
 その五層の、昔ながらの木の階段をのぼる時、隆太郎は危ふくころびかけた。さうしてその従兄の八高生から引つ擁へてもらつた。

前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北原 白秋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング