何と小さな人間、白の、黒の、紫紺の、ぽつり、ぽつり、ぽつりだ。
*
大洞可児合は蘇川中の一大難所である。その本流と可児《かに》川の合するところ、急奔し、衝突し、抱合し、反※[#「てへん+発」、71−上−16]する余勢は、一旦、一大鉄城のごとく峭立し突出する黒褐の岩石層の絶壁に殺到し、遮断されて、水は水と撃ち、力は力と抗《あらが》ひ、波は岩を、岩は波を噛んで、ここに囂々、淙々の音を成しつつ再び変圧し、転廻し、捲騰し、擾乱する豪快無比の壮観を現出する。藍と碧と群青と、また水浅葱と白と銀緑と、渦と飛沫と水※[#「さんずい+區」、第3水準1−87−4]と泡と、泡と、泡と。
膚粟を生ずとはこの事だらう。私は驚いて数歩下つた。
しかも明るく曠くうち展けた上流の空の、連蜂と翠巒、濛々たる田園の黄緑、人家、煙。霧、霧、霧。
そこでまた、踵をめぐらして岩角と雑草との間の小径を香木峡の乗船地へと向つて降りた。
どこかで茶でも飲まうではないか、茶店ぐらゐはあるだらうと言へば、ありますありますと答へながら、赤い腕章の制帽はそれでも一軒の葭簀の茶亭は通り越してしまふ。途中に白いペンキ塗の洋館の天狗何々と赤い看板を出したそのドアの前にかかつたが、窓の硝子もことごとくしめきつて「当分休業中」とあつた。真夏でもここまでの遊覧客はさして見えないらしい。ライン遊園地もまだ完成しないで、自然の雑木原に近い。窪地にスケート・リンクなどがあるくらゐだから沍寒《ごかん》はきびしいのであらう。崖の縁へ出ると漸く休憩所の一つを見出した。人の気配もせぬので、のぞいて見ると隅つこの青く透いたサイダー罎の棚の前に、鱗光の河魚の精のやうな爺が一人、しよんぼりと坐つてゐた。ぼうと立つのは水気である。
翠嶂山と呼ぶこのあたり、何かわびしい岩礁と白砂との間に高瀬舟の幾つかが水に揺れ、波に漂つて、舷々相摩するところ、誰がつけたかその名も香木峡といふ。左に碧くそそり立つのが碧巌峰である。
そこで屋形の舟のひとつを私は小手招く。そこここの薄墨の、また朱のこもつた上の空の、霧は、煙雨はいよいよ薄れて、この時、雲の断れ間から、怪しい黄色の光線が放射し出した。これからまたひとしきり凪になつて蒸し暑く蒸し暑くなるのである。
「ぢやあ、ここでお別れします。私は土田へ出てこの山の裏手を廻つて帰りますが、どちらが早いかひ
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