岩石層は少く、すべてが微光をひそめた巒色の丘陵であつた。深沈としたその碧潭。
私たちはまた車上の人となる。藍鼠と燻銀との曇天、丘と桑畑、台が高いので、川の所在は右手にそれぞと思ふばかりで、対岸の峰々や、北国風の人家を透かし透かし、どこまでもどこまでも自動車は躍つてゆく。土の香がする。草のかをりがする。雨と空気と新鮮な嵐と、山蔭は咽ぶばかりの松脂のにほひである。駛る、駛る、新世界の大きな昆虫。
「見えた。あの鉄橋からまはりますか。」
「よし。」
そこでハンドルを右へきゆつと廻す。囂々とその釣橋を渡つてまた右折する。兼山の宿である。と、風光はすばらしく一変する。爽快々々、今来た峡谷の上の高台が向うになる。薄黄の傾斜面と緑の平面、平面、平面、鉾杉の層、竹藪、人家、思ひきり濃く、また淡く霞む畳峰連山、雨の木曾川はその此方の田や畑や樹林や板屋根の間から、突として開けたり隠れたりする。岩礁が見える。舟が見える。あ、檜だ、瓦だ、絵看板だ。
遙にまた煙突、煙突、煙突である。あの黒い煙はと聞くと、あれは太田だといふ。よくも上まで来たものだと思ふ。いや、かれこれ二時間は走つてゐますと運転手が笑ふ。かうして兼山から伏見、伏見から広見、今渡とかつ飛ばすのである。
土田は名鉄の犬山口から分岐する今渡線の終点に近い。ちらとその駅をのぞいて、また右へ、ライン遊園地へ向けて、またまた驀進々々々々である。行けるところまで行つて、危ふく何かにぶつかりさうにして留ると、奇橋がある。「土田《どた》の刎橋《はねばし》」である。この小峡谷は常に霧が湧き易くて、罩めると上も下も深く姿を隠すといふ。重畳した岩のぬめりを水は湍《たぎ》ち、碧く澄んで流れて、謂ふところの鷺の瀬となる。
橋の袂で敷島を買つて、遊園地の方へほつりほつりと私たちは歩いてゆく。雨はあがりかけて日の光は微かに道端の早稲の穂に射しかけて来る。七夕の紅や黄や紫の色紙がしつとりと濡れにじんで、その穂や桑の葉にこびりついてゐる。死んだ螢のにはひか何かが咽んで来る。開けつぱなしの小舎がある。蚕糞や繭のにほひがする。莚が雑然と積んである。表に「自転車無料であづかります」と貼札してある。この道七八丁。
安壮なる北陽館の前に出る。二階の渡り廊下の下の道路を裏へ抜けると、ここに驚くべき大洞可児合の壮観が眼下に大渦巻を巻き騰《あ》げる。断崖百尺の上の、
前へ
次へ
全9ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
北原 白秋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング