四月」のしのびあし、
過ぎて消えゆく日のうれひ。
[#地から3字上げ]四十四年四月

  涙

蒼ざめはてたわがこころ、
こころの陰《かげ》のひとすぢの
神経の絃《いと》そのうへに、
薄明《ツワイライト》のその絃《いと》に、

薄明《ツワイライト》のその絃《いと》に、
ちらと光りて薄青く、
踊るものあり、豆のごと……
雨は涙とふりしきる。

見れば小さな緑玉《エメラルド》、
ひとのすがたのびいどろの、
頬にも胸にもふりしきる、
涙……かなしいその眼つき。

声もえたてぬ奇《あや》しさは
夜半《よは》に「秘密」の抜けいでて、
所作《しよさ》になげくや、ただひとり、
パントマイムの涙雨。

月の出しほの片あかり、
薄き足もつびいどろの、
肩に光れどさめざめと、
歎き恐れて、夜も寝ねず。

金《きん》のピアノの鳴るままに、
濡れにぞ濡るれすべもなく、
神経の上、絃《いと》のうへ、
雨は涙とふりしきる。[#地から3字上げ]四十四年十月

  新生

新らしい真黄色《まつきいろ》な光が、
湿《しめ》つた灰色の空――雲――腐れかかつた
暗い土蔵の二階の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]に、
出※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の白いフリジアに、髄の髄まで
くわつと照る、照りかへす。真黄な光。

真黄色だ真黄色だ、電線《でんせん》から
忍びがへしから、庭木から、倉の鉢まきから、
雨滴《あまだれ》が、憂欝が、真黄に光る。
黒猫がゆく、
屋根の廂《ひさし》の日光のイルミネエシヨン。

ぽたぽたと塗りつける雨、
神経に塗りつける雨、
霊魂の底の底まで沁みこむ雨
雨あがりの日光の
欝悶の火花。

真黄《まつき》だ……真黄《まつき》な音楽が
狂犬のやうに空をゆく、と同時に
俺は思はず飛びあがつた、驚異と歓喜に
野蛮人のやうに声をあげて
匍ひまはつた……真黄色な灰色の室を。

女には児がある。俺には俺の
苦しい矜がある、芸術がある、而して欲があり熱愛がある。
古い土蔵の密室には
塗りつぶした裸像がある、妄想と罪悪と
すべてすべて真黄色だ。――
心臓をつかんで投げ出したい。

雨が霽れた。
新らしい再生の火花が、
重い灰色から変つた。
女は無事に帰つた。
ぽたぽたと雨だれが俺の涙が、
真黄色に真黄色に、
髄の髄から渦まく、狂犬のやうに
燃えかがやく。

午後五時半。
夜に入る前一時間。
何処《どつか》で投げつけるやうな
あかんぼの声がする。
[#地から3字上げ]四十四年十月



[#ここから2字下げ、30字詰め]
四十四年の春から秋にかけて自分の間借りして居た旅館の一室は古い土蔵の二階であるが、元は待合の密室で壁一面に春画を描いてあつたそうな、それを塗りつぶしてはあつたが少しづつくづれかかつてゐた。もう土蔵全体が古びて雨の日や地震の時の危ふさはこの上もなかつた。
[#ここで字下げ終わり]

  黄色い春

黄色《きいろ》、黄色、意気で、高尚《かうと》で、しとやかな
棕梠の花いろ、卵いろ、
たんぽぽのいろ、
または児猫の眼の黄いろ……
みんな寂しい手ざはりの、岸の柳の芽の黄いろ、
夕日黄いろく、粉《こな》が黄いろくふる中に、
小鳥が一羽鳴いゐる。
人が三人泣いてゐる。
けふもけふとて紅《べに》つけてとんぼがへりをする男、
三味線弾きのちび男、
俄盲目《にわかめくら》のものもらひ。

街《まち》の四辻、古い煉瓦に日があたり、
窓の日覆《ひよけ》に日があたり、
粉《こな》屋の前の腰掛に疲れ心の日があたる、
ちいちいほろりと鳥が鳴く。
空に黄色い雲が浮く、
黄いろ、黄いろ、いつかゆめ見た風も吹く。

道化男がいふことに
「もしもし淑女《レデイ》、とんぼがへりを致しませう、
美くしいオフエリヤ様、
サロメ様、
フランチエスカのお姫様。」
白い眼をしたちび男、
「一寸、先生、心意気でもうたひやせう」
俄盲目《にわかめくら》も後《うしろ》から
「旦那様や奥様、あはれな片輪で御座います、
どうぞ一文。」
春はうれしと鳥も鳴く。

夫人《おくさん》、
美くしい、かはいい、しとやかな
よその夫人《おくさん》、
御覧なさい、あれ、あの柳にも、サンシユユにも
黄色い木の芽の粉《こ》が煙り、
ふんわりと沁む地のにほひ。
ちいちいほろりと鳥も鳴く、
空に黄色い雲も浮く。

夫人《おくさん》。
美くしい、かはいい、しとやかな
よその夫人《おくさん》、
それではね、そつとここらでわかれませう、
いくら行《い》つてもねえ。

黄色、黄色、意気で高尚《かうと》で、しとやかな、
茴香《うゐきやう》のいろ、卵いろ、
「思ひ出」のいろ、
好きな児猫の眼の黄いろ、
浮雲のいろ、
ほんにゆかしい三味線の、
ゆめの、夕日の、音《ね》の黄色。
[#地から3字上げ]四十五年三月

  汽
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