驕c…

汽笛が鳴る……四谷を出た汽車の Cadence《カダンス》 が近づく……

暮れ悩む官能の棕梠
そのわかわかしい花穂《ふさ》の臭《にほひ》が暗みながら噎《むせ》ぶ、
歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい亢奮の黄。

寂しい冷たい教師の声がきこえる、そして不可思議な……
そこここの明《あか》るい角※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]のなかから。
Sin ……, Cosin ……. Tan ……, Cotan ……. Sec ……, Cosec ……. etc ……
Ion. Dynamo. Roentgen. Boyle. Newton.
Lens. Siphon. Spectrum. Tesla の火花
摂氏、華氏、光、Bunsen. Potential. or, Archimedes. etc, etc……
棕梠のかげには野菜の露にこほろぎが鳴き、
無意味な琴の音の稚《をさ》なびた Sentiment は
何時までも何時までもせうことなしに続いてゆく。
汽笛が鳴る……濠端《ほりばた》の淡《うす》い銀と紫との空に
停車《とま》つた汽車が蒼みがかつた白い湯気を吐いてゐる。
静かな三分間。

悩ましい棕梠の花の官能に、今、
蒸し暑い魔睡がもつれ、
暗い裂けた葉の縁《ふち》から銀の憂欝《メランコリイ》がしたたる。
その陰影《かげ》の捕捉《とら》へがたき Passion の色、
歯痛の色の黄《きな》、沃土ホルムの黄《きな》、粉つぽい亢奮の黄《きな》。

Neon. Flourum. Magnesium.
Natrium. Silicium. Oxygenium.
Nitrogenium. Cadimium or, Stibium
           etc., etc.……
[#地から3字上げ]四十三年三月

  骨なし児と黒猫

そは恐《おそ》ろしきXなり。淫《みだ》らにして不倫《ふりん》なる母《はは》のごとく、
汝《な》が神経《しんけい》と知覚《ちかく》とは痛《いた》ましきほど慄《わなな》けども、力《ちから》なき骨《ほね》なし児《ご》よ。
終日《ひもすがら》、わづらはしき病室《びやうしつ》の白葡萄酒《はくぶどうしゆ》の如《ごと》き空気《くうき》に呼吸《こきふ》し、
霊《たましひ》のうつらぬ瞳《ひとみ》は唯《ただ》狂《くる》はしき硝子戸《がらすど》の外《そと》をうち凝視《みつ》む。

そが背後《うしろ》の棚《たな》の上《うへ》、やや青《あを》みたる陰影《いんえい》の中《うち》、
ニツケルの産科《さんくわ》の器械《きかい》鵞《が》のごとき嘴《はし》して光《ひか》り、
薄《うす》く曇《くも》れる硝子《がらす》のなかにとりあつめたる薬剤《やくざい》の罎《びん》、
その青《あを》く赤《あか》くおぼめける劇薬《げきやく》のエチケツテ……鋭《するど》く、苦《にが》し。

ああ骨《ほね》なし児《ご》よ。この薄暮《くれがた》の反射《はんしや》に、
柔軟《やはら》かにして悩《なや》ましき汝《な》が衾《ふすま》は銀《ぎん》の潤沢《しめり》に光《ひか》れど、
冷《ひや》やかなる鉄《てつ》の寝台《ねだい》の上《うへ》、据《す》ゑられし木造《きづくり》の函《はこ》は、
汝《な》が身《み》を入《い》れたる小《ちひ》さき牢獄《ひとや》は山葵色《わさびいろ》の曇《くもり》にうち歎《なげ》く。

大人《おとな》びたる顔《かほ》の白《しろ》き白《しろ》き白粉《おしろい》の恐《おそ》ろしさよ。
なよなよと凭《もた》せたる身体《からだ》のしまりなさ。
霊《たましひ》の青《あを》さ、いたましさ、
生温《なまぬ》るき風《かぜ》のごと骨《ほね》もなき手《て》は動《うご》く――その空《そら》に※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]銀《しやうぎん》の鐘《かね》はかかれり。

ああ、ああ、今《いま》しがたまでぞ、この硝子戸《がらすど》の外《そと》には
五|時《じ》ごろの日《ひ》の光《ひかり》わかわかしき血《ち》のごとくふりそそぎ、
見《み》えざる窓下《まどした》のあたりより、
抑圧《おさ》えあへぬ抱擁《はうえう》の笑《わら》ひ声《ごゑ》きこえしか――葱畑《ねぎばたけ》すでに青《あを》し。

※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]銀《しやうぎん》の鐘《かね》よりは一条《ひとすぢ》の絹《きぬ》薄青《うすあを》く下《さが》りて光《ひか》る。
その端《はし》をはづかに取《と》りたる手《て》は、その瞳《ひとみ》は、
ああ、すべて力《ちから》なし。――さらにさらに痛《いた》ましきはかかる青《あを》き薄暮《くれがた》の激《はげ》しき官能《くわんのう》の刺戟《しげき》。

聴《き》け、遂《つひ》に、彼《かれ》は泣《な》く。……
あらず、そは馴染《なじ》みたる黒猫《くろねこ
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